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2007年11月30日 (金)

アメリカの教育と医療

教育と医療というのは、先進国では最大の関心事となっているように思えます。日経新聞の連載記事『3億人のアメリカ 第3部 膨らむ夢の果て』で、昨日・今日と両者がとりあげられていました。先進国のなかの先進国、アメリカの例は示唆に富むかと思います。

 裕福な家庭に生まれなくても高い教育を受けるチャンスがある - 。こんなアメリカの理念を支えるのが、学生の三分の二が学費支払いに利用する教育ローン。しかし世界で最も整備されていたはずの仕組みが今、除々に劣化している。学費高騰で学生の負担が増しているためだ。

 非営利団体カレッジ・ボードによると、二〇〇七年度の四年制大学の学費は公立大の平均で年間一万三千ドル、私立は同三万二千ドル。物価上昇分を除くと二十年前の一・五倍。卒業生のローン残高は平均一万九千二百ドル。物価調整後の比較で十年前より五八%増えた。

『学費高騰「教育」にリスク』, 日本経済新聞, 2007年11月29日, 朝刊7面

 医療費高騰で保険料が上昇し、保険提供をやめる企業や保険購入をあきらめる人が増加。米企業の二〇〇八年の従業員一人あたりの医療費負担は〇三年に比べ五割近くも重い約九千三百ドルとなる。医療問題を研究している非営利団体、米カイザー・ファミリー財団の調査では、医療保険を提供しない民間企業の比率は〇〇年の三割から〇七年は四割に上昇しており、今後、さらに増える可能性がある。現在、全米の無保険者は四千七百万人に達している。

【略】

 ここ数年で増え始めた免責条項付き保険は、社員のコスト意識向上を促し、医療コスト圧縮につなげるのが狙い。カイザー・ファミリー財団のまとめでは、社員一世帯当たり月額二千ドル以上の免責条項を付けた保険の導入を検討しているケースは民間企業全体の約二割に上る。こうした条項が導入されれば、月額二千ドル未満の医療費はすべて個人で払わなくてはならなくなる。

『医療保険には頼れない』, 日本経済新聞, 2007年11月30日, 朝刊7面

教育も医療も、市場原理にはなじまないとされている分野と思いますが、まあ、そのとおりであることが、現実に証明されつつある、という感じですね。

教育・医療の費用が高騰するのは、社会が豊かになったことによるのでしょう。市場原理によれば、高騰が加速される面はあるのでしょうけど。常にコストを押し上げる社会的な力が働いている以上、政府が手がけても、費用が増え続ける点は変わりがないわけでして。政府が価格をコントロールできるだけ、いくらかまし、というところでしょう。

日本では、政府が価格を低く抑えているために、コスト上昇の圧力が需要サイドではなく、もっぱら供給サイドに働いていて、教育現場・医療現場の荒廃が進んでいるようです。市場化すれば、需要サイドにコスト上昇圧力を転嫁することが可能なのでしょうけども。。。

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2007年11月27日 (火)

政府には無駄があるというけども。。。

 政府への幻滅の原因は何か。われわれが求めたのは奇跡だった。奇跡を求めれば得られるものは幻滅である。たとえ無意識ではあっても、われわれは政府が無料でサービスしてくれると信じた。そのための費用は誰かが負担してくれると思った。

P.F.ドラッカー,  『断絶の時代』,  p.219

Aが無駄だからこれを削って、余った予算をBへ、というような話はあまりスジのよくない話でしょうね。Bに予算が必要なら、Bのための負担を全員に求めるべきでしょう。Aが無駄だというのなら、Aを廃止して、全員の負担を軽減すればよいだけのことでしょう。

 これらのものの費用はすべて税金である。だからこそやっていけている。しかし当然そう理解していなければならないにもかかわらず、この半世紀というもの、政府なら費用を捻出し、無料でやってくれるという神話が広がっていた。

同書,  p.220

"無駄をなくす”、”効率化”などというのは、一種の錬金術じゃないですかねえ。政府に無駄がない、なんてことはなくて、もちろん、どこかしらにはあるのでしょうけど。ただ、それを利用して金を生み出すことはできないし、期待すべきでもないと思います。

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2007年11月24日 (土)

P.F.ドラッカー『断絶の時代』

ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)Bookドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)

著者:ピーター・F・ドラッカー
販売元:ダイヤモンド社
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・・・

1969年の著作だそうですが、今日の状況にも、驚くほど当てはまりますね。例えば、”今どきの”若者が3年で仕事をやめる理由として、以下の記述は本質を突いていると感じます。

 今日、この自らを独立した専門職業とする自負と、格や所得ははるかに上回るもののある意味では昨日の熟練労働者の後継者にすぎないという現実の間に葛藤が生じている。この葛藤が教育を受けた若者たちの幻滅の底にある。彼らが、企業、政府、軍、大学のばからしさを口にするのも、このためである。

 彼らは知識人たろうとする。だが実際にはスタッフにすぎない。しかもあらゆる組織がそのようなものであるからには逃げ道もない。企業に背を向け大学に残っても、そこもまた組織にすぎないことを知る。大学から出て政府機関に入っても同じ状況にある。

 彼らのほとんどが、問題は、退屈な仕事と自由との選択ではないことを知らない。彼らの前にある選択は、所得と機会を約束する仕事と、食べていくための畑での一日十六時間の耕作や草むしりである。しかしこれを彼らに理解させることは無理かもしれない。彼らの全員が、自分だけは本当の専門家としての仕事につく資格があるというに違いない。

p285-286

 少なくともごく最近までは、仕事に要求される能力そのものは、さほど大きく変わっていない。女性店員の仕事には、三〇年前は中卒で十分だったものが、今日では高卒あるいは短大卒が必要になった。しかしそのことには仕事上の特別な理由があるわけではない。今日の一八歳あるいは二〇歳の女性店員が、一九三五年頃の一五歳よりも、あるいは一九一〇年の一二歳よりも多くを売っているわけではない。

 一九二九年当時アメリカでは、大量生産工場の職長は中卒で働き出した人たちだった。一〇年後の第二次世界大戦直前には高卒になった。今日では大卒が普通になっている。ところが仕事そのものは、本質的には四〇年前とほとんど変わっていない。変わったとすれば、仕事が定式化されたり、人事、品質管理、生産管理の専門家に奪われたりした結果、職長の仕事が易しくなったことぐらいである。

【中略】

したがって仕事の高度化とされているものの直接の原因は、学校教育の延長にすぎない。学校教育が長くなれば就職時の学歴が上がってくるだけのことである。

p287-288

学校教育が延長され、また、多様化してきたのは、実社会での仕事に必要だから、というわけではなく、それ自体が社会のニーズによってもたらされたものである、というのはそのとおりであろう、と思います。このニーズは、平均寿命が伸びたことによって、社会が豊かになったことによって、働き始めるのを遅らせるようになったことにより生じている、ということです。つまり、何もせずに遊ばせているよりは、教育を受けさせたほうがマシ、という程度のものであったのでしょう。

実際のところ、学校教育と仕事というのは、直に結びつくものではなく、それぞれが別のもので、別々の論理で存在しているのだと思います。ただ、これは長年学校教育を受けてきたものが、仕事に就こうとするとき、ある種のショックをあたえるものであるのでしょう。実社会の側としては、こうした高学歴の人々、いまでは普通の人々なわけですが、そうした人々にも居場所をつくり、比較的高待遇で受け入れてきたわけですが、仕事そのものが急に大きく変わったわけでないでしょうから、ギャップというのは常に存在してきたと思います。

今はこうしたギャップが拡大しすぎているのかもしれませんね。

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2007年11月18日 (日)

”医療崩壊マップ”更新しました

医療崩壊マップ を更新しました。
「勤務医 開業つれづれ日記」さんの最新の一覧を反映しています。

【産科 休止一覧 6 】 日本全国 今後の崩壊予定

マスメディアも似たような特集をやるようになっていますし、もういいかなー、と正直考えていたのですがw 「勤務医 開業つれづれ日記」さんが、お忙しいなか、メンテを続けていらっしゃいますので。ネット上の資料として、使ってくださっている方も、まだいらっしゃるようですしね。

マップのプロット作業は、先週には終わっていたのですけども。それだけですと、何なので、Googleガジェット化もやってみました。

以下から、ガジェットを追加することができます。

自分のサイトにガジェットを追加

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2007年11月 3日 (土)

『方丈記私記』

Book方丈記私記 (ちくま文庫)

著者:堀田 善衛
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

・・・

私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

戦時中、東京大空襲のさなかにあって、「方丈記」を暗誦できるほどに読み返したという著者の、自己の体験と、「方丈記」のなかの記述との、共感によって書かれた「私記」です。

世の乱るゝ瑞相とか聞けるもしく、

「方丈記」福原遷都をめぐる記述のなかの上の文について、”瑞相”という、”吉兆”、よいことを意味する言葉が使われているのをみて、著者は、東京大空襲の後の、焼け跡にたったときに感じたものを思い起こします。

この分では日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という、無気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感であった。

古い制度が何もかも失われ、新しく、そして暗に今よりもより良くなるという意を含む、制度ができる、という期待を、空襲の惨事のなかにあって感じたとか。

古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

また、”古き日本”は既に崩壊の道を歩んでいるなかにあって、「明日の、新たなる日本というものについての映像がどうしても、うまく目に見えて来ない...」。歴史の狭間にある人間の、”ある不安の感”を、”浮雲の思ひ”に見出します。

しかし、著者は上のような”期待”を裏切られる出来事に遭遇します。

人民の側において、かくまでの災殃をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この、といまのことばを援用していえば、体制は維持されるであろう、と私にしても、何程かはヤケクソに考えざるを得ないのであった。

日本の伝統的な思想の蓄積としての、”無常観”、”もののあはれ”、といった、”運命”(とみなしたもの)に対するある種の諦念が、政治的権力の前にあって、いかに都合のよいものであるか、これを著者にして、「日本」の業の深さ、としているように思いました。

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