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2008年4月24日 (木)

私が死刑制度に反対な理由

ある種の”卑劣さ”を感じるからですね。元来、他者の死を求める者は、自身の命をその代価とせねばならないはずでして。人を呪わば穴2つとでもいいますか。

かのハムラビ法典の第1条には、他者の死刑を求める者が、その立証を行なうことができなかったとき、その者は死刑になる、とあったと思います。目には目を、死刑には死刑を、というわけです。

また、イギリスには、19世紀まで、殺人罪その他重罪に関し、決闘裁判なる制度が存在していました。これは、その名のとおり、原告・被告の双方が、互いの命を賭け決闘を行い、正邪を決する、という制度です。自身の手袋を投じるのが、その宣言の儀式であったとか。これは、原告・被告のいずれかが望めば、行なうことができたようです。

もともと、刑事裁判というのは、現在のように、国家が訴追を行なうのではなく、民事裁判と同じく、私人間の争いとして行なわれていました。この場合、おそらく、刑を執行するのもまた、私人たる原告であったのでしょう。とすれば、死刑を望み、勝訴を得た場合でも、結局、自身の手で被告を屠らねばならないわけです。当然、被告は黙って殺されたりはしないでしょうから、不意を打ってでも返り討ちにする事態が予想されるわけでして、決闘裁判によるのも、一定の合理性はあったのでしょうね。

現代では、刑事裁判では、国家が訴追を行なうようになっています。問題は、国家という実体のない存在が主体となることで、訴追側の誰もリスクを負わなくなったことでありましょう。かっては命賭けで行い、自らの手を汚す必要のあったものが、現代では、被告人を除いて誰の命の危険もなく、また、手を汚すのも限られた人間となっています。かってより、被告人の命は軽く扱われているかのように思えます。

民主主義国では、国家の主権者は国民であるわけですから、死刑を執行する主体もまた国民である、といえるでしょう。とすれば、死刑執行人を国民の中からランダムに選び、その者が刑を執行する、というのも理にかなうと思います。死刑制度に本気で賛成する者であれば、自らの手を汚すことも厭わないはずです。辞退するのは自由で、その場合は刑は執行されないことにします。受刑者と”決闘”する、というのはさすがに無理でしょうから、受刑者が抵抗できない状態で殺すということでよいでしょう。

こうしますと、国民の中に死刑賛成の者がある程度存在し、その者が執行を行なう限り、死刑制度は存続します。辞退多数で刑の執行が行なえなくなれば、そのときには廃止することになります。

どうでしょうかね? もちろん、その際には、私は慎んで辞退させていただきますけどね。

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