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2008年6月20日 (金)

思想・市場・暴力

社会の成員内で、生産・分配を行なう手段としては、思想・市場・暴力の3種があり、この3種のバランスによって、社会における「適正な分配」というものが実現されてる、と思うのです。

さらに、だ。関係者が何百何千何万人となったら、そいつらがみんなで話し合って決めたりするのは実質的に不可能だ。2ちゃんねるで何か合意を得てごらん。そもそも、だれが話し合うべきなの? 何を? そしてそんな世界になったら、ぼくはどれほど大量の話し合いを強制されるわけ? 今飲んでいるペットボトルの水を作るのですら、ぼくはいったい誰と話をしたらいいのかさえわからない。水の精製業者に PET 生産者に射出成形業者にラベル業者に...... やってられませんって。お金を通じた市場のよさは、情報のチャネルをしぼることで多くの人々の協力関係と合意を得やすくできること、なんだけれど。

そしてその一方で、値段なんて一つの数字でしかないと思うかもしれない。確かにそれは完璧じゃない。でも、それはみんなが集会を開いて学級会のまねごとをするよりもはるかに豊かな情報量を持っている。

研修資料の余白に:『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である (山形浩生)

山形氏の書評は、「コミュニケーション・チャネルとしての優劣」という点だけをみているところに、問題があるのではないでしょうかね。

コミュニケーションの手段として、市場よりも強力なものがあって、それは暴力ではなかろうかと思うのです。なにせ、暴力というのは、言葉が通じない相手にも通用しますし、相手は人間である必要すらないという、「優れもの」であるわけです。市場経済という社会機構すら必要ではないですしね。暴力によって、生産を行い、暴力によって、分配を行なえばよろしいわけです。

社会全体を考えれば、暴力による恐怖政治よりも、市場経済による方が良いといえるのかもしれません。が、一部の力のある個人、特権的地位にある個人にとっては、暴力によるほうが、自己の利益を最大にすることができるかもしれませんよね。旧共産主義国において、一般市民が食糧を得るために長い行列を作る一方、「特権階級」の共産党幹部は、お城に住み、召使にかしづかれ、贅沢の限りを尽くしていたように。

市場経済の価格メカニズムは、個人が自己の利益を最大にするよう行動すると、結果として社会全体にとって最適な分配が実現される、と説明されています。しかし、個人が自己の利益を最大にするよう行動するのであれば、それが市場の枠内である必要はどこにあるのでしょうか? 自己の利益を最大にするべく、暴力を行使する、という選択肢も当然ありますよね。なぜ、その選択肢は選ばれない/選ぶべきでないのでしょう?

少々白々しいですが、言いたいのは、市場というものは、自然発生的に生まれたものではなく、それ自体が、ある種の思想の上に成り立っているものではないか、ということです。思想というより、信仰という方が適切かもしれません。それは、自由・平等・博愛といったような、現代日本ではシニカルな目で見られている、そういったものだと思います。西洋社会というのは、基本的に「キリスト教国」の社会である、という点を、私達はしばしば失念しているようにも思うのですよね。

文化とは何であろうか。思想とは何を意味するものであろうか。一言でいえば、「それが表すものが『秩序』である何ものか」であろう。人が、ある一定区域に集団としておかれ、それを好むままに秩序づけよといわれれば、そこに自然に発生する秩序は、その集団がもつ伝統的文化に基づく秩序以外にありえない。そしてその秩序を維持すべく各人がうちにもつ自己規定は、その人たちのもつ思想以外にはない。

山本七平著, 『日本はなぜ敗れるのか − 敗因21カ条』, 角川書店(2004), p119

この本で、山本七平氏が、戦犯収容所の経験から、日本軍の「無思想ぶり」を指摘しています − 実は、この本のこの箇所でも、マルクス主義が出てきているのですが。

将校、一兵卒、朝鮮人・台湾人のグループにそれぞれわかれて、収容所内で「自治」を行なうよう、求められるわけですが、この中で、一番酷かったのが、将校のグループであったといいます。当時は希少であった、高等教育を受けた人達が、収容所内で「暴力団」を作り、暴力に基づく恐怖政治を行なっていて、まことに酷い状況であったとか。

日本人のなかでは、一兵卒の中で、職人のグループが、もっとも立派に収容所内に秩序を作っていて、朝鮮人・台湾人のグループも秩序正しく運営されていたといいます。また、将校であっても、日本の捕虜収容所にいた、英米オランダ人などのグループも、収容所内では、秩序正しい生活を行なっていたとか。

日本人の高等教育を受けた人々は、収容所内で、ろくに秩序を生み出すことができなかったわけです。この理由として、明治以降の「文明開化」にあって、かっての日本の伝統的思想を封建的であるなどとして退けたが、外国の輸入学問を行なうばかりで、結局、伝統的思想に代わるべき思想を得ることがなかったからであるとしています。

翻って、現代にあって、日本人の無思想ぶりには、さらに拍車のかかっている感があるわけでして、上の山形氏の書評においても、「手段としての利便性」という面からしか考えられていないように思うのですよね。これは、私も同様でして、思想・市場・暴力といったものを、便利な道具程度としか考えていなかったりします。しかしながら、こうして、無思想にあらゆるものを「便利な道具程度」としてしまいますと、「暴力を選ばない理由」というものが出てこないように思えるわけでして、それがやはり問題なのでしょう。

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