2009年10月22日 (木)

Divide by zero error

間違い探しの問題ですね。

1=2? - 諏訪耕平の研究メモ

「2と1は等しい」 数学界で論議

数学の誤った推論を集めて、分析した書籍というのがありまして:

き弁的推論 ブラジス ほか著 ; 筒井孝胤, 千田健吾訳 -- 東京図書, 1965.9

以前に、 arton さんが紹介していた、 ソビエト連邦の一般向き数学書と、同じシリーズみたいです。

曰く、

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国文部省の指導書 <<第5学年から第10学年における数学教授法について>> (1952年, 41 ページ) には, <<あらゆるき弁は生徒の論証能力を発展させるための補助手段としてきわめて有効である>> ということが述べられている.

ちなみに、代数の章の一番最初の例題は:

(1) 1 / 4 円 = 25 銭 である。

(2) 両辺の平方根をとって、 1 / 2 円 = 5 銭 。

よって、 1 円の半分は 5 銭である。

というものです。

推論の誤りを見抜く能力というのは、プログラミングでのデバッグの能力に関係ありそうですね。

誤りを調べるときには, 無条件に, 完全にすべてをはっきりさせなければならないことをつけ加えておこう. すなわち, 推論の中で見すごされた誤りはどこにあるか, またその誤りをどのように訂正したらよいかということを, 生徒たちははっきり把握しておかなければならない.

昔、新人さんの書いたプログラムを、当の新人さんと一緒にデバッグしていて、

「何でそんなに疑い深いのですか?」

といわれたことを思い出しました。 いや、何でといわれてもねえ。

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2009年5月24日 (日)

英語 時制の機能

というものの一つに、文の順番とは別に、文意の時系列や因果律を指定する、というものがあるのではないでしょうかね。

木下是雄著『日本語の思考法』 1 のなかのエッセイ 「言語技術教育に取り組む」 で、以下の問題 2 がとりあげられています。

次の文は、事実の記述か、それとも意見か。

私たちは殺人犯人 (murderer) スニドハートが出納係を射つのを目撃した。

解答は、「意見」で、その理由は、「マーダー (murder) というのは殺すつもりで殺すときにかぎって使うことばだが、ピストルの弾丸が出納係に当たったのを見ただけでは故意か暴発かはわからない」とあります。

ところで、私は上の問題中の例文を、最初、以下のように解釈したのでした。

1) 既に何人かを殺したところの、殺人犯人スニドハートが

2) 出納係を射って、新たに犠牲者を増やした

3) のを、私たちは目撃した

つまり、大量殺人の現場に居合わせた人たちの目撃談だととったわけです。

解答をみて、例文は、文の順序と、因果律の順序が異なっている、ということに気付いたわけでして。

つまり、

1) スニドハートが出納係を射ち、

2) 殺人犯人となった

3) のを、私たちは目撃した

わけですね。

日本語の場合、基本的には、文の順序と、文意の時系列順、もしくは因果律は、一致させるのが基本なのではないでしょうか。文の順序と因果律の順序が逆転していますと、上の例文のように、異なる意味で解釈される余地が生まれてくるのではないかと思います。因果律を逆転させるなら、それとわかるように、接続詞などを用いて、表現を工夫しないといけないでしょう。

英語の場合、 12 種類もの時制が存在し、これは厳格に使われるきまりとなっていますので、文の順序を時系列・因果律どおりにする必要は必ずしもないわけですね。文の時制をみれば、その文意をどの順番でとれば良いかがわかりますから。

Now let's get started. We can iteract with Erlang using an interactive tool called the shell. Once we've started the shell, we can type expressions, and the shell will display values.

Joe Armstrong, "Programming Erlang" 3

上の例文は、以前読んだときに、時制がわかりやすい形で使われているので、記憶に残っていたものです。

Erlang シェルの起動は完了していて、 今現在は、 Erlang シェルに式を打ち込める状態にあり、 その後は、Erlang シェルに式を打ちこむと、式の値が表示されるわけですね。


1. 日本語の思考法, 木下是雄著 -- 中央公論新社, 2009.4 -- (中公文庫 ; き-35-1)

2. 理科系の作文技術, 木下是雄著 -- 中央公論社, 2002.6 -- (中公新書 ; 624) でも同じ問題文がとりあげられている。 もともとは、 米国の「国語」の教科書のもの。

3. Programming Erlang : software for a concurrent world, Joe Armstrong -- Pragmatic Bookshelf, 2007

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2009年5月16日 (土)

抽象化のステップ

人間の知識には、3つの基本的な構成要素があります。1つ目は客観的事実(たとえば、そこにいるネコ)、2つ目はネコの観念、そして3つ目は、他人とコミュニケーションをするためにその観念に当てはめた言葉(「ネコ」という名詞)です。

論理ノート D.Q.マキナニー著 ; 水谷淳訳 -- ダイヤモンド社, 2005.3, p.19

人が抽象的な観念を得る方法というのは、おおまかに2つあると思います。

1) 現実世界のアナロジーから新たに観念を得る

2) 既知の観念から新たに観念を得る

1), 2) のステップを繰り返すことで、観念のレイヤを積み重ね、より抽象化の度合いを高めていくわけです。

1) の現実世界のアナロジーというのは、例えば、初めて算術を学ぶ子どもが、自分の指を使って、足し算や引き算をやるといったもの。現実世界の人間の指のアナロジーとして、自然数という観念が獲得されるわけです。

2) は、自然数の除算という既知の観念から、分数という観念が得られるといった具合。こちらの方が、抽象化の度合いがより高いと考えます。現実世界から、自然数という観念のレイヤを得て、その上に分数という観念のレイヤを作り上げているからです。

分数というのは、子どもが初めて出会う、観念から観念への抽象化の例なのかもしれません。

スタジオ・ジブリの映画 「おもひでぽろぽろ」 に、主人公が、分数の割り算を、ケーキの切り分け(か何か、うろ覚え)のアナロジーで考えようとして混乱する、という場面が出てきます。

その場面で思ったのは、ケーキを切り分けるのに、分数は必要ないだろうということ。ケーキの切り分けのアナロジーは、あくまで自然数の除算なのだと思うわけでして。分数を使うことで得られるものがないように思います。

この場合、自然数と現実世界とのアナロジーで分数を考えようとしているのが敗因かなと。そもそも、現実世界にアナロジーを求めるのが間違いかもしれません。分数は自然数という観念から生じたもので、現実世界から直接生じたものではないでしょうから。

プログラミングを始めようとして何度も挫折した。

教えるプロみたいな人に教えてもらっても駄目だったし、尊敬している人に教えてもらったけどやっぱり駄目だった。

才能以前なんだろうな。必死さが足りないって言われた。でも必死になるってどういう事なのか全然判らない。

あと、前教えてもらったことを自宅で復習しても全然出来なかった。

何がわからないのかもわからない。基礎の問題とか出して貰っても判らない。用語や文法みたいなレベルで既に躓くというか。なんというか、「言葉」って何で言葉って言うの?みたいな変な疑問ばかり湧いてきて進まないんだよね。

http://anond.hatelabo.jp/20070523230747

こういう方は、抽象化というものに慣れていないのだと思うのですよね。プログラミング言語の記号の意味というのは、現実世界から遠く隔たったレイヤで定義されているわけです。従って、自分自身の現実世界での経験から、アナロジーを見出そうとしても徒労に終わるだけでしょう。

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2009年5月10日 (日)

中国の「ソースコード強制開示」

中国側は、ソフトの欠陥を狙ったコンピューターウイルスの侵入防止などを制度導入の目的に挙げる。しかし、ソースコードが分かればICカードやATMなどの暗号情報を解読するきっかけとなる。企業の損失につながるだけでなく、国家機密の漏洩(ろうえい)につながる可能性もあるため日米欧の政府が強く反発。日本の経済界も昨秋、中国側に強い懸念を伝えた。

ソースコード開示、中国強行...知財流出の恐れ YOMIURI ONLINE(読売新聞)

技術を盗むためとか、海賊版作るためとか、いわれているらしいですね。

技術盗んだり、海賊版作ったりするのに、別にソースコードなんて要らないんですけどね。

製品を解析すればすむ話でしょう。ソフトウエアの世界では、リバース・エンジニアリングと呼んでいて、通常は、ライセンスで禁止されている行為だったりします。ソフトウエアの解析は、ハードウエアより、はるかに簡単に出来てしまいます。マスコミが好んで使うたとえを使うと、製品そのものがあれば、製品の設計図にある情報はすべて手に入るわけでして。

ま、技術オンチの下衆の勘繰りといったところですか。

ついでに、読売の記事に突っ込んでおくと、ソースみたって、暗号解読はできません。もともと、現代の暗号では、そのアルゴリズム − ソースに書いてあるもの − は広く公開されていますし。逆に、ソースみて暗号解読できるなら、セキュリティ上、重大な欠陥のあるソフトウエアといえますね。

日経は、まともな意見載せてますね。こういうところは、いい意味で「日経らしい」と思います。

メディアがそれぞれのルートで調査を行い、事実関係に基づいて筋の通った分析や報道をするのであれば何ら問題ないが、この件については各メディアが横並びで世論を煽ろうとしているようにしかみえない。「たら」「れば」が充満している報道が何の解決にも繋がらないことはいうまでもない。ましてや世論を誤って誘導しお互いの国益を損うとなればなおさらだ。

本当に中国が悪い? IT製品情報の強制開示に先進国がNO インターネット-最新ニュース IT-PLUS

もう少しまともな憶測をしてみますと。

以前より、外国企業の、「クローズド・ソース・ソフトウエア」 − ソースコード非開示のソフトウエア − を、政府機関が使うということに対する、危機管理上、あるいは安全保障上の懸念は、中国に限らず、日本・欧州各国の政府も示すところであったわけです。

外国企業ってのは、要は米国企業なわけでして。ソフトウエアの分野は、ほぼ米国企業の一人勝ちになってますからね。ま、その米国でも、州政府が「いち企業」のクローズド・ソース・ソフトウエアを使うことに対して、似たようなことが言われたりしているわけですが。

そうしたわけで、政府関係機関は、クローズド・ソース・ソフトウエアではなく、オープン・ソース・ソフトウエアを使うべきである、という主張がなされているわけです。

それで、 Microsoft − 「いち企業」ね − は、 Microsoft シェアード ソース イニシアティブ なるものを提供するようになったわけですね。さすがに、ぬかりがないというべきでしょう。

ガバメント セキュリティ プログラム (GSP) は、世界各国政府の固有のセキュリティ要件に応えるためのマイクロソフトの活動に不可欠な要素です。GSP は、マイクロソフト製品のセキュリティを評価するうえで役立つ情報を各国の政府に提供します。

...

GSP に参加している政府は、Windows 2000、Windows XP、Windows Server 2003、Windows CE、および今回追加された Microsoft Office の最新バージョン、ベータ リリース、および Service Pack のソースコードにスマートカードを使用して無償でオンライン アクセスできます。また、米国の輸出承認などの要件を満たしている GSP 参加者は、暗号コードおよび開発ツールにもアクセスできます。

ガバメント セキュリティ プログラム (GSP) microsoft.com

中国政府も、 政府機関での Linux 利用を進めたりして、この種の主張を熱心にしていたわけですから、今回のIT 機器の認証制度とやらも、この延長線上にあるものなのでしょう。

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2008年12月15日 (月)

Vine Linux 4.2, Webブラウザがとっても重い

Vine Linux 4.2 には、 Web ブラウザ として、 Firefox 2.0 がついているのですが、これの動作がとっても重いのですよね。見ていると、ホスト名の名前解決が妙に遅いです。

「これってキャッシュしてないのでは...」

と思いまして。

とりあえず、ネームサーバをインストールして、問い合わせ結果をキャッシュさせてみることにしました。

#apt-get -y install bind caching-nameserver

とすると、キャッシュサーバとして named がインストールされます。

#service named start

として、 named を立ち上げまして、 /etc/resolv.conf を、

nameserver 127.0.0.1

と、自分自身をみるように変更します。

Firefox を立ち上げると ... えらく早くなりましたよ?

単にクライアントとして使いたいだけなんですけどね。ネームサーバを入れるのはやりすぎのような。

LinuxはローカルにDNSキャッシュを持たないことを初めて知った

Ubuntu Weekly Recipe: 第20回 いろいろなキャッシュ:dnsmasq, cache proxy (gihyo.jp 技術評論社)

さて、どうするのがいいか。

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2008年12月13日 (土)

Vine Linux 4.2, Thinkpad iSeries 1200 1161-91J, IO DATA ETX-PCM

Vine Linux 4.2 を Thinkpad iSeries 1200 1161-91J にインストールしました。 が、 16bit PCMCIA Ethernet カード、 IO DATA ETX-PCM を認識しません。

#/sbin/pccardctl ls
Socket 0 Bridge:    [yenta_cardbus]  (bus ID: 0000:00:03.0)
Socket 0 Device 0: [-- no driver --] (bus ID: 0.0)

Linux Kernel 2.6 から、 PCMCIA デバイスの扱いが変わっているそうで。

Linux Kernel 2.6 PCMCIA

Linux Kernel 2.6 PCMCIA - HOWTO

Linux Kernel 2.6 PCMCIA: cardmgr to pcmciautils HowTo

カーネル・ソース・ツリーを色々探してみると、ドライバ・ソース・コードの device table というものに、 PCMCIA カードの情報を入力すれば良い、とわかりました。

Matching of PCMCIA devices to drivers is done using one or more of the following criteria:

  • manufactor ID
  • card ID
  • product ID strings and hashes of these strings
  • function ID
  • device function (actual and pseudo)

    You should use the helpers in include/pcmcia/device_id.h for generating the struct pcmcia_device_id[] entries which match devices to drivers.

    Documentation/pcmcia/devicetable.txt (git.kernel.org)

ネット上で色々検索した結果から、 IO DATA ETX-PCM のドライバは、 axnet_cs という名前になることがわかりました。現時点で最新と思われる、 Linux Kernel 2.6.27.8 の /drivers/net/pcmcia/axnet_cs.c を覗いてみますと。

static struct pcmcia_device_id axnet_ids[] = {
        PCMCIA_PFC_DEVICE_MANF_CARD(0, 0x016c, 0x0081),
        PCMCIA_DEVICE_MANF_CARD(0x018a, 0x0301),
        PCMCIA_DEVICE_MANF_CARD(0x026f, 0x0301),
        ...
        PCMCIA_DEVICE_PROD_ID12("IO DATA", "ETXPCM", 0x547e66dc, 0x233adac2),
        ...
        PCMCIA_DEVICE_NULL,
};
MODULE_DEVICE_TABLE(pcmcia, axnet_ids);

最新カーネルには、 IO DATA ETX-PCM は、既に含まれているみたいですね。

Vine Linux 4.2 のカーネル・ソース 2.6.16 を覗いてみると、確かにこのテーブル・エントリはありません。この部分を、 Vine Linux 4.2 のカーネル・ソースに追加して、カーネル再構築を行ないました。1

無事認識されるようになりました。

#/sbin/pccardctl ls
Socket 0 Bridge:    [yenta_cardbus]  (bus ID: 0000:00:03.0)
Socket 0 Device 0:  [axnet_cs]       (bus ID: 0.0)

1. Vine Linux Users Manual 15.2. カーネルパッケージのアップグレード

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2008年11月11日 (火)

2兆円バラマキ

確か、瀬戸大橋の総工費が1兆円くらいだったよな、と。

塩飽諸島の5つの島の間に架かる6つの橋梁と、それらを結ぶ高架橋により構成されており、橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmの延長を持つ。これは鉄道道路併用橋としては世界最長である。橋梁は吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。総事業費はおよそ1兆1338億円。

瀬戸大橋 Wikipedia

財団つくって、年利1%で運用すると、毎年 200 億円 使えますね。

2兆円はもっとも有効な使い方をして欲しい (5号館のつぶやき )

定額給付金の自主的返納? (5号館のつぶやき)

日本の政治も末期的な感じですな。

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2008年8月28日 (木)

ゆとり世代というより少子化世代

大学入学者の学力が低下している、という話について。

中央教育審議会 初等中等教育分科会(第59回)議事録・配付資料 [資料2-1] (文部科学省) のページに、「18歳人口及び高等教育機関への入学者数・進学率等の推移」という資料があります。それによりますと、平成19年度の収容力(当該年度の大学・短大入学者数 ÷ 当該年度の大学・短大志願者数)は、 90.5 % となっています。

グラフを見れば一目瞭然なのですが、第二次ベビーブーマー世代に当たると思われる、直近の18歳人口のピークを過ぎたあたりから、収容力がうなぎのぼりに上昇していますね。

Image1

18歳人口と大学入学者数を、直近のピークである、平成4年度から抜き出しますと、以下のとおりです。

年度 (1)18歳人口 万人 (2)大学入学者数 万人 (2) ÷ (1)
平成 4 205 54 26.3%
平成 5 198 55 27.8%
平成 6 186 56 30.1%
平成 7 177 57 32.2%
平成 8 173 58 33.5%
平成 9 168 59 35.1%
平成10 162 59 36.4%
平成11 155 59 38.1%
平成12 151 60 39.7%
平成13 151 60 39.7%
平成14 150 61 40.7%
平成15 146 60 41.1%
平成16 141 60 42.6%
平成17 137 60 43.8%
平成18 133 60 45.1%
平成19 130 61 46.9%

平成4年度の18歳人口から、平成19年度のそれをみますと、 63.4% まで減少しています。対して、大学入学者数は、むしろ若干増えていますね。この間に大学の定員が削減されたという事実はないかと思います。

さて、考察を簡単にするため、単純化して以下の仮定をおきます。

  • 上記の間、大学入学者集団の学力に変化はなかった
  • 上記の間、18歳人口は 6割に減った
  • 上記の間、大学の定員数に変化はなかった

そうしますと、まず1番手の大学については、上位 6割の層が、かっての大学入学者と同レベルの学力を有しており、下位 4割の層は、以前であれば、2番手の大学の上位 4割を占めていた層であると考えられます。

2番手の大学については、以前の 上位 4割の層は、ワンランク上の、1番手の大学へといき、以前の下位 6割の層が繰り上がって、上位 6割を占めます。下位 4割は、以前であれば、3番手の大学の上位 4割を占めていた層であると考えられます。

同様に、3番手、4番手 ... と続きます。

つまるところ、大学入学者全体の学力レベルは以前と同じであっても、個々の大学から見た場合には、明らかに入学者の学力レベルは低下しているというわけです。その原因はといえば、少子化の急速な進行にもかかわらず、大学の定員数を維持し続けたことでしょう。

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2008年8月 1日 (金)

工学部の先生による教育問題の見方

学力低下は錯覚である Book 学力低下は錯覚である

著者:神永 正博
販売元:森北出版
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工学部の先生が、ゆとり教育、学力低下、理工系離れ、文系理系の待遇差について論じた本。出版元が森北出版なのも異色な感じですね。

この先生のお考えが、私が漠然と考えていたことと、ほぼ一致しているのが驚きでした。統計データを引きつつ、以下のような見解を示されています。

  • いわゆる「ゆとり教育の弊害」は、それを裏付ける証拠がない。
  • 「分数のできない大学生」など、大学生の学力が低下しているのは事実。しかし、少子化の進行にともない、18歳人口が急速に減少するなかで、大学の定員はむしろ増加しており、以前なら大学に入学できなかった層が入学していることで説明できる。
  • 「理工系」離れが言われているが、現実に起きているのは、「工学部離れ」であり、理系志望の人間自体は増えてもいないが、減ってもいない。理、医薬歯系へとシフトしている。

といったあたりは、文部科学省の統計データを眺めたりして、そういった傾向が見えないか、などと私も考えていました。

一方、

  • 文系の方が理工系より優遇されている、というが、データからみて、そのようなことはない。

というのは、少々意外な話でしたね。世間に流布する俗説というのはあてにならないものです。

この本の一番最後に、義務教育課程に対する提言がなされているのですが、この点に関しても全く同感です。国語・英語・数学の教科を徹底的にやるべき、とのご意見です。

筆者は、義務教育段階では、基礎教科を、時間をかけて徹底的に学ばせるべきだと思っている。学習には個人差があるので、なかなかわからない子もいるだろう。しかし、わからないからといってここで学び損ねると、後で取り返すのに大変な苦労をしなくてはならない。

【略】

なにがなんでも身につけてもらわなければならないからこそ義務教育なのである。

「詰込み教育」のアンチテーゼとしての「ゆとり教育」であれば、あれもこれもと広く浅くやるのではなく、基礎を徹底してやるのが本来の姿ではないか、と思うのですけどね。

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2008年7月19日 (土)

トヨタ主任技術者の過労死報道

InfoQ より。ここでこの話題を見るのが、ちょっと意外だったので、目に留まったのですが。

Last month the Japanese labor board ruled that the death of the Chief Engineer on the Camry Hybrid project was 'karoshi' (death by over work). In his last few months he worked more than 80 hrs of overtime a month. He died of a heart attack only day before he was due to fly to the Detroit Auto Show.

Death of Hybrid Camry Chief Engineer is Ruled Overwork (InfoQ)

ソフトウエア開発でも、トヨタ生産方式を範とした、リーン開発というものがあり、それに関連しての議論がなされているようです(曰く、「主任技術者にあまりにも多くの責任を負わせているのでは」等々)。

それはともかくとしまして、元記事のリンク先の報道に、次のような文があります。

The man, whose name has been withheld at the request of his family, died in January 2006 of ischaemia - a shortage of blood to the heart - at his home in Toyota, central Japan, where the carmaker has its headquarters.

Senior Toyota engineer died of overwork (guardian.co.uk)

「遺族の意向により(亡くなった方の)名前を伏せる」という表現がありますね。こういう表現は、日本の報道では見たことがないように思いまして、何か新鮮に感じました。

日本のマスコミというのは、市民側ではなく、権力側にいる存在なのでしょうね。

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2008年7月 8日 (火)

小姑の国

正直、「居酒屋タクシー」の時点で、既に果てしなくどうでもいい話だと思っていましたが。

土日通勤定期券問題など ( BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com )

マイレージの話から、通勤定期の話にまで、話が発展しているようで。いや、ネタならいいんですけどね。典型的な 自転車置き場の議論 ですわな。

しかし、この話の恐ろしいところは、実際に「居酒屋タクシー」問題で官僚が処分されてしまったことでしょう。

なんといいますか......

大東亜戦争下で、日本軍が、玉砕だの特攻だのと、無意味に犠牲を増やしていたのは、やはり、日本国内の世論をはばかってのことであったのでしょうね。軍はやるべきことはやっている、これだけの犠牲を払っている、と民衆に対して、エクスキューズする必要があったのでしょう。

何か、そうした、血に飢えた民衆と、それに迎合する政府、といった図式の一端を見たような気持ちです。まあ、官僚の方々にしてみれば、「今さら」なのかもしれませんが。

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2008年7月 2日 (水)

「量刑」の問題

行為の良し悪しをいえば、悪いに決まっているわけでして、残るは「罪」と「罰」のバランスの問題でしょうね。

「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」−−。イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。

イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。

落書き:伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分に 毎日jp(毎日新聞)

私は次のように感じましたけどね。

  • イタリア : 文化遺産より人間が大事。
  • 日本 : 人間より文化遺産が大事。

「人間を粗末にする国」ニッポンの面目躍如ですな。

Country Year Males Females
ITALY 02 11.4 3.1
JAPAN 04 35.6 12.8

Suicide rates per 100,000 by country, year and sex (WHO) より抜粋)。

10万人当たり自殺者数は、イタリアより日本が 3〜4倍多いみたいですね。この辺が、両国の「文化の差」というやつですかね。

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2008年6月28日 (土)

公務員は「サービス業」なのか?

公務員は「サービス業」であるのだから、個々の国民は、公務員に対し、色々クレームや注文をいう権利があるとか。

「公僕」という言葉のとおり、「広く公衆に奉仕する者」ではあるのでしょうけどね。あくまで、国民全体に対して奉仕するのであって、個々具体的な「国民」に対してではなく、つまるところ、特定の一国民が公務員に対し、何かを要求することはできないでしょう。

「俺 たち の税金」という言葉にあるように、勝手に「国民の代表」を称して、色々と主張する者があるわけですが。何の根拠もなく、自らをもって、世論を代表している気でいるとは、笑止千万でしょう。それこそ、選挙に立候補して当選した者であるのなら、まだ根拠はあるのですがね(アローの不可能性定理はともかくとして)。

しかしまあ、こうした考えの者が多数であるのなら、本当に公務員の「サービス業」化も考慮に値するかもしれませんね。

「サービス業」であるからには、支払った対価によって、サービスの内容が決まることになるでしょう。国民が支払う対価とは税金であり、税金の額は主として所得によって決まるわけですから、所得別に受けられるサービスの内容を決めることになりますね。

厚生労働省の所得再分配調査によりますと、税・社会保険料による拠出が受給を上回るのは、年間所得が600万円あたりの所得階級からであるようです(平成17年度調査 p.8 にある 「図5 当初所得階級別所得再分配状況」を参照)。

これと、所得税の課税所得を考慮して、以下のように分けると良いかもしれませんね。

  • 1級市民 年間所得が 1,800万円 以上
  • 2級市民 年間所得が 900万円 以上
  • 3級市民 年間所得が 700万円 以上
  • 非市民 上記に該当しない者

市民の等級によって、行政から受けられるサービスが変わるというわけです。非市民は納税を完全に免除して、そのかわりに、一切のサービスを受けられないとしますと、国家財政も著しく改善をみることでしょう。

納税額によって市民を等級分けするというのは、19世紀あたりまでの「自由主義国家」においては、普通にあったはずであるわけでして、応益負担 ― 得られる益に対し応分の負担をする ― という考えから、自然と導かれる発想ではあるのでしょう。こうした考え方が変わって来たのは、第一次世界大戦あたりからでしょうかね。

確かに、昨今は19世紀以前の「自由主義国家」への回帰と思えるようなことを、主張する者もあるわけですから、上記のようなことも本気で検討に値するのかもしれません。

私はまっぴらごめんですけどね。

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2008年6月26日 (木)

後期高齢者医療制度の設立趣旨

正直、私もよく理解していないのですけどね。

何かと問題の多い後期高齢者医療制度ですが、そもそも老人保険料の現役世代の負担を減らすことが目的の一つであったはずです。

しかし、実際には業界・業種によっては、かなりの数の健康保険組合が後期高齢者医療制度による負担金増加のために、この4月から保険料値上げを余儀なくされているのが実態のようです。

これでいいのか?後期高齢者医療制度で低所得ハケン労働者が負担増 (木走日記)

「現役世代の負担を減らす」のは、確かに「目的の一つ」なのでしょうけども、それは、将来の若年世代が「過大な負担」をすることのないよう、という話でしょう。つまり、今現在の負担を減らす、というような話ではなく、今後負担が急激に増加するのを抑える、ということではないでしょうか。制度導入当初は、むしろ負担増となるのは別におかしな話ではなく、制度変更によって料率が変わるなら、当然ある話ではないでしょうか。

これは、「健康保険料率を平成19 年度の 61/1000 から 76/1000 へと大幅に引き上げること」を意味しています。

【略】

組合員数45万人、平均年齢34才のこのハケン健保ですが、その平均年収は280万円という、決して多くはないのが実態です。

これでいいのか?後期高齢者医療制度で低所得ハケン労働者が負担増 (木走日記)

実際には、年収に料率をかけるわけではないのでしょうが。まあ、額的には、だいたいこんなものではないでしょうかね。

改定前)

280万円 × 61/1000 = 170,800 円/年

170,800 ÷ 12 = 14,233 円/月

14,233 ÷ 2 = 7,116 円/月 (労使で折半)

改定後)

280万円 × 76/1000 = 212,800 円/年

212,800 ÷ 12 = 17,733 円/月

17,733 ÷ 2 = 8,867 円/月 (労使で折半)

政府管掌健康保険よりは、まだ安そうですね。国民健康保険に対しては、言うに及ばすでありましょう。

元記事の人材派遣健康保険組合の資料にあるとおり、国民健康保険へ負担が集中するのを避けるのが、制度の趣旨であるわけですから、組合健保の保険料負担が増えるのは、制度の趣旨どおりなのではないでしょうかね。

1 制度改革の背景とねらい

(1) 高齢者の医療費は若人の5 倍も高く、高齢化の進行により国民医療費は増加の一途をたどっていますが、高齢者は国民健康保険(国保)に集中するため、特に国保の財政維持が難しくなっています。

(2) 増え続ける高齢者の医療費について、被用者保険(健保組合、政管健保、共済組合)と国保との負担の均衡を図るのが制度改革のねらいで、その結果、健保組合の負担が急増することになります。

(3) 同時に、75 歳以上の後期高齢者からの新たな保険料の徴収や、74 歳未満の前期高齢者の患者負担の増加で、高齢者と若人の負担の公平を図ることにしています。

厚生労働省の資料では、以下のように説明されていますね。おそらく、制度発足当初は負担増となることは、説明されていたのではないかと思いますが。

(1) 後期高齢者医療制度における後期高齢者の保険料の負担率と若人が負担する後期高齢者支援金(若人の保険料が財源)の負担率は、制度発足時は後期高齢者は1割、若人は約4割である。

(2) しかし、今後、後期高齢者人口は増加すると見込まれる一方、若人人口は減少すると見込まれるため、後期高齢者の負担分は支え手が増えるが、若人の負担分は支え手が減っていく。したがって、仮に後期高齢者の保険料の負担率と後期高齢者支援金の負担率を変えないこととすると、後期高齢者一人当たりの負担の増加割合と比較して、若人一人当たりの負担はより大きな割合で増加していくこととなる。

(3) このため、「若人人口の減少」による若人一人当たりの負担の増加については、後期高齢者と若人とで半分ずつ負担するよう、後期高齢者の保険料の負担割合について、若人減少率の1/2の割合で引き上げ、後期高齢者支援金の負担率は引き下げることとする。

「後期高齢者負担率の改定方法について」 『後期高齢者医療制度の概要』 p.11 第1 回社会保障審議会 後期高齢者医療の在り方に関する特別部会 平成1 8 年1 0 月5 日

組合健保の負担を加入者割りで一律にしたのと、国民健康保険、被用者保険、老人保健制度の関係を整理して、広域連合化したという点は、健康保険組合の効率化を図るという観点から、評価して良いのでは、と思います。75歳以上に限定している点は、疑問は残りますけどね(ただ、今回の制度から、というわけでもないのでしょうけど)。

高リスクの被保険者である後期高齢者は、どの保険組合でも「お荷物」になっていて、この点、各保険者の間で政治的に合意しやすかったのかもしれません。個人的には、後期高齢者に限定せず、若年者も含めて、健康保険組合の整理統合、広域化を図っていくのが良いのでは、と思うのですけども。それが、「国民医療の効率化」の本筋ではないですかね。診療報酬引き下げなどより、よほど合理的な手段ではなかろうかと。

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2008年6月20日 (金)

思想・市場・暴力

社会の成員内で、生産・分配を行なう手段としては、思想・市場・暴力の3種があり、この3種のバランスによって、社会における「適正な分配」というものが実現されてる、と思うのです。

さらに、だ。関係者が何百何千何万人となったら、そいつらがみんなで話し合って決めたりするのは実質的に不可能だ。2ちゃんねるで何か合意を得てごらん。そもそも、だれが話し合うべきなの? 何を? そしてそんな世界になったら、ぼくはどれほど大量の話し合いを強制されるわけ? 今飲んでいるペットボトルの水を作るのですら、ぼくはいったい誰と話をしたらいいのかさえわからない。水の精製業者に PET 生産者に射出成形業者にラベル業者に...... やってられませんって。お金を通じた市場のよさは、情報のチャネルをしぼることで多くの人々の協力関係と合意を得やすくできること、なんだけれど。

そしてその一方で、値段なんて一つの数字でしかないと思うかもしれない。確かにそれは完璧じゃない。でも、それはみんなが集会を開いて学級会のまねごとをするよりもはるかに豊かな情報量を持っている。

研修資料の余白に:『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である (山形浩生)

山形氏の書評は、「コミュニケーション・チャネルとしての優劣」という点だけをみているところに、問題があるのではないでしょうかね。

コミュニケーションの手段として、市場よりも強力なものがあって、それは暴力ではなかろうかと思うのです。なにせ、暴力というのは、言葉が通じない相手にも通用しますし、相手は人間である必要すらないという、「優れもの」であるわけです。市場経済という社会機構すら必要ではないですしね。暴力によって、生産を行い、暴力によって、分配を行なえばよろしいわけです。

社会全体を考えれば、暴力による恐怖政治よりも、市場経済による方が良いといえるのかもしれません。が、一部の力のある個人、特権的地位にある個人にとっては、暴力によるほうが、自己の利益を最大にすることができるかもしれませんよね。旧共産主義国において、一般市民が食糧を得るために長い行列を作る一方、「特権階級」の共産党幹部は、お城に住み、召使にかしづかれ、贅沢の限りを尽くしていたように。

市場経済の価格メカニズムは、個人が自己の利益を最大にするよう行動すると、結果として社会全体にとって最適な分配が実現される、と説明されています。しかし、個人が自己の利益を最大にするよう行動するのであれば、それが市場の枠内である必要はどこにあるのでしょうか? 自己の利益を最大にするべく、暴力を行使する、という選択肢も当然ありますよね。なぜ、その選択肢は選ばれない/選ぶべきでないのでしょう?

少々白々しいですが、言いたいのは、市場というものは、自然発生的に生まれたものではなく、それ自体が、ある種の思想の上に成り立っているものではないか、ということです。思想というより、信仰という方が適切かもしれません。それは、自由・平等・博愛といったような、現代日本ではシニカルな目で見られている、そういったものだと思います。西洋社会というのは、基本的に「キリスト教国」の社会である、という点を、私達はしばしば失念しているようにも思うのですよね。

文化とは何であろうか。思想とは何を意味するものであろうか。一言でいえば、「それが表すものが『秩序』である何ものか」であろう。人が、ある一定区域に集団としておかれ、それを好むままに秩序づけよといわれれば、そこに自然に発生する秩序は、その集団がもつ伝統的文化に基づく秩序以外にありえない。そしてその秩序を維持すべく各人がうちにもつ自己規定は、その人たちのもつ思想以外にはない。

山本七平著, 『日本はなぜ敗れるのか − 敗因21カ条』, 角川書店(2004), p119

この本で、山本七平氏が、戦犯収容所の経験から、日本軍の「無思想ぶり」を指摘しています − 実は、この本のこの箇所でも、マルクス主義が出てきているのですが。

将校、一兵卒、朝鮮人・台湾人のグループにそれぞれわかれて、収容所内で「自治」を行なうよう、求められるわけですが、この中で、一番酷かったのが、将校のグループであったといいます。当時は希少であった、高等教育を受けた人達が、収容所内で「暴力団」を作り、暴力に基づく恐怖政治を行なっていて、まことに酷い状況であったとか。

日本人のなかでは、一兵卒の中で、職人のグループが、もっとも立派に収容所内に秩序を作っていて、朝鮮人・台湾人のグループも秩序正しく運営されていたといいます。また、将校であっても、日本の捕虜収容所にいた、英米オランダ人などのグループも、収容所内では、秩序正しい生活を行なっていたとか。

日本人の高等教育を受けた人々は、収容所内で、ろくに秩序を生み出すことができなかったわけです。この理由として、明治以降の「文明開化」にあって、かっての日本の伝統的思想を封建的であるなどとして退けたが、外国の輸入学問を行なうばかりで、結局、伝統的思想に代わるべき思想を得ることがなかったからであるとしています。

翻って、現代にあって、日本人の無思想ぶりには、さらに拍車のかかっている感があるわけでして、上の山形氏の書評においても、「手段としての利便性」という面からしか考えられていないように思うのですよね。これは、私も同様でして、思想・市場・暴力といったものを、便利な道具程度としか考えていなかったりします。しかしながら、こうして、無思想にあらゆるものを「便利な道具程度」としてしまいますと、「暴力を選ばない理由」というものが出てこないように思えるわけでして、それがやはり問題なのでしょう。

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2008年6月19日 (木)

エビデンスの無視

「死刑執行 ハイペース」と題する、日経新聞の記事に、町村信孝官房長官のコメントが掲載されています。

「近年凶悪な犯罪が多い、死刑判決が増えてきたということへの対応の一つの姿」とし、死刑執行が犯罪の抑止につながるとの見方を示した。

日本経済新聞 2008/6/18 43面(社会)

「死刑執行が犯罪の抑止につながるとの見方」は、官房長官のコメントからは直接導き出せませんので、この記事を書いた記者の見方である可能性はありますが。

2/1に警察庁が去年の犯罪統計を発表したんですが、殺人の認知件数は1,199件で平成3年の1,215件を下回って戦後最低を記録しました。

平成19年(2007)の殺人発生数は戦後最低 (少年犯罪データベースドア)

「凶悪な犯罪が多い」というのが、何を指すのか明らかではありませんが、殺人については、戦後一貫して減少、もしくは横ばい傾向であるようでして、統計上、「凶悪な犯罪が多い」という事実は存在しないようです。

また、刑罰の「重罰化」により、「犯罪の抑止につながる」という説も、エビデンスによって否定されています。学生時代に、「刑罰に犯罪予防の効果はなく、刑罰の存在は、もっぱら応報により説明される」というのを読んだ記憶があったのですが、最近の報道に接していると、記憶違いだったかと思えてきまして。改めて、調べてみましたが、少なくとも、「重罰化」によって犯罪抑止は期待できない、というのは事実であるようです。

2004年にナッシュビルで開催されたアメリカ犯罪学会では、学会長を中心とするグループによる刑罰による犯罪抑止効果の総合的検証プロジェクトの中間報告がなされていた。そこでは、40以上の抑止効果の実証研究をメタ分析を用いて検証していたが、重罰化には統計的に有意な犯罪抑止効果はなく、刑罰の確実性についても抑止効果は期待できないという結果が報告されていた。その際に、会場から「これだけのエビデンスがそろっているのに、どうして人は同じ過ち(重罰化)を繰り返し続けるのだろうか。」という質問が出された。

浜井浩一編著, 『犯罪統計入門』, 日本評論社(2006), p.34

確か、私が学生時代に読んだ犯罪学の本は、図書館にあった古い本で、1975年くらいに出版されたものであったと記憶しています。最近になって、違う研究結果が出された、というわけでもないようですね。

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教育支出の費用効果分析

今朝の日経新聞『経済教室』(2008/6/18 朝刊27面)で、「教育支出の効果分析を」と題し、慶応義塾大学 赤林 英夫氏(経済学)が寄稿されています。

「教育政策」の費用効果分析とは、政府の教育の支出が、どの程度、学力や生活水準の向上に寄与しているか、その効果の計測と予測を行なうことである。効果を金銭価値で示すことができる場合、「費用便益分析」と呼ばれる。

としまして、「教育の社会的収益率」なる表が掲載されています。

教育投資の社会的収益率(%)

国のグループ(平均所得) 小学校 中学高校 大学
高所得国(22,530ドル) 13.4 10.3 9.5
中所得国( 2,966ドル) 18.8 12.9 11.3
低所得国( 363ドル) 21.3 15.7 11.2
世界平均( 7,669ドル) 18.9 13.1 10.8

(出所)G・サカロポロス、H・パトリノスの世界銀行ワーキングペーパー(2002年)

「教育投資の社会的収益率」とは、 「政府の追加的教育投資により、将来どの程度の所得水準の向上が平均的に見込めるか、利回りベースで示した指標」とのことでして、「高所得国も含め、初等中等教育への投資の収益率が相対的に高い」とあります。

私はこれを読んで、「高所得国」にあっても、初等教育への投資が、最も「高収益」が期待できる、というのは、少々意外の感がありました。日本のような先進国にあっても、下から底上げを図るのが、結局は、国民所得の向上に資することになり、つまりは、労働生産性の向上が見込める、ということなのでしょうかね。

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2008年6月 7日 (土)

個人でできることは個人でやり、集団では集団でしかできないことをやる

後からプレゼンのデータ、チャットのログ、要点まとめWiki、完全なまとめWiki、授業を受けた人のblog記事、塾講師のフォーラムでの授業後の議論等を収集するので十分だ。授業中はノートにコピーする機械になるより、話を全力で聞いて、全力で突っ込んだり議論したりと頭をはたらかせていた方がいい。(この突っ込み力、議論力、まとめ力、も評価したいし、できるだろう。ジョーク力なんかも評価したいが)

無駄だらけの現代授業を最適化しよう (高校生奮闘記)

今の授業を見てみると、要するに物凄い『受け身』の授業だと思うのだ。基本的には先生が板書し、説明しているだけ。生徒的にはそれこそブラウン管の向こうのものを見ている感覚に近い。こういう授業では殆ど頭を使わない(俺だけかもしれないけどね)。これをもっと双方向的な授業にしたいのだが、今は構造的にそれが出来ない状況になっている。

授業の最適化について捕捉 (高校生奮闘記)

このエントリを読んで、まさに私が高校生ぐらいの時分に、体育会系の友人が語っていたことを思い出しました。

日本の部活動では、ランニングや、筋トレなど、一人でできるような基礎トレーニングも、いちいち、部員全員を集めて集団でやっている。時間の無駄だと思う。一人でできるようなトレーニングは、各自でやれば良いのであって、集団でやる必要はない。集団でやるのなら、連携プレイや、フォーメーションなど、集団でしかできないトレーニングをやるべきだ。実際、欧米ではそうするのが普通らしい。

当時は、なるほどなあ、と感心したものなのですが。これって、学校の授業にも当てはまるのではないですかね。

学習というものを、知識のインプットとアウトプットに分けますと、インプットの部分というのは、一人でもできるんですよね。教科書でもノートでも参考資料でも、インプットすべき内容を渡して、それを生徒が各自で勉強してくればよいわけです。

しかし、アウトプットの部分に関しては、一人でやるのはなかなか難しいわけです。日本の学校では、アウトプットといえば、ペーパーテスト(だけ?)になるかと思いますけど。他にも、ディスカッションですとか、プレゼンテーションですとか、色々あるんですよね。

欧米の学校の授業というのは、ディスカッションが中心になっていると聞きますけど、それは、上のような考えに基づいているのではないでしょうかね。つまり、ディスカッションの題材となる知識については、各自で教科書なり参考資料なりを事前に勉強してくることになっていて、授業ではそれを前提に集団でディスカッションする、という形になっているのでは、と想像するわけです。

インプットの部分は、ITツールを使うことで、”高速道路論”にいうように、現在よりももっと効率化し、浮いた余裕を、アウトプットにまわしたい、ということだと思いましたけどね。正論と思います。

日本の教育が座学、つまりはインプットに偏重していて、アウトプットといえば、ペーパーテストぐらいしかない、というのは事実でしょう。この方式のメリットは、コストパフォーマンスの高さであろうと思います。少数の教師で多くの生徒を相手にすることができますからね。まさに大量生産方式でして、”教育工場”とは言いえて妙です。

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2008年5月29日 (木)

年金と保険

素人なりに考えてみました。

ある生命保険を考えます。この生命保険は、ある期間中 a < t < b に、死亡があった場合に、保険金が支払われます。Wikipediaにあった式を流用しますと、保険料と保険金との関係は、以下のような形になるはずです。

P = ω[a < t < b] Z

ω[a < t < b] は、この期間内に死亡する確率です。

期間の上限をはずして、 a より後に死亡した場合に保険金が支払われるとしますと:

P = ω[a < t] Z

この場合に、保険金 Z を、 a より後に、死亡するまで分割して支払うとしますと、この生命保険は、かなり年金に近くなってきますね。年金の場合、 a から死亡までに、保険金 Z が満額支払われるわけではありませんから、 Z も死亡時点 x によって変動します。

P = ω[a < t] E[Z(x)]

かなり適当な話ではありますが、年金は生命保険の変種と考えればよさそうです。

さて、年金が単なる貯蓄よりも、「スケールする」のは、以下のような事象があるためでしょう。

  1. 被保険者が、支給開始時点 a に達せずに死亡する。
  2. 被保険者が受け取る年金総額が、 保険金額 Z に到達する前に死亡する。

被保険者全員が「満額」を受け取るわけではありませんから、貯蓄するより少ない拠出額によって、リスクに備えることができるわけですね。これを「スケールする」といったわけですが。この場合の「リスク」が、 時点 a より「長生きする」ことであるのは、少々複雑な感はありますけどね。

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2008年5月27日 (火)

「保険」という言葉

”資金を預かって、これを運用して、保険金として返す”、”やがて自分たちに返ってくる保険料”というくだりで、少し引っかかってしまいました。

結論から述べてみよう。国が民間型の保険をやること自体が誤りなのである。1960年代、国民皆年金、国民皆保険ということで、福祉制度の充実のスローガンのもとに現在の制度がつくられたのだが、福祉制度の充実と保険制度の導入とが同じものと考えてしまったことに問題があったのだ。

福祉制度の充実は必要だし、国がそのために大きな役割を果たすことは必要である。しかし、国ができることは、税金を取って福祉にあてること、つまり、福祉サービスのメニューを充実して、そのための税金を取ることなのである。これは、広義の所得再分配であると考えられる。また、税金といっても、所得税や消費税のような一般財源ではなく、例えば、社会福祉税という名の特定財源でもいいわけである。

しかし国には民間のように保険料をとって、これを金融市場で運用する能力はない。つまり、個人から保険料という形で資金を預かって、これを運用して、保険金として返すことはできないのである。

【正論】早稲田大学教授・榊原英資 国は保険業務から撤退せよ (MSN産経ニュース)

ここまで仰る以上、榊原氏が責任を持って、あらゆる社会保障需要をことごとく賄うだけの税金をどこからか取り立ててきてくれるんでしょうね。

それがどれだけの税率になろうが、責任を持ってそれだけの税金を持ってこれると。

市民の皆様は、やがて自分たちに返ってくる保険料だという名目もなく、喜んで山のような税金を払ってくださると。

榊原英資氏の「正論」 (EU労働法政策雑記帳)

Wikipedia では、「保険」の頁には以下のように記述されています。

保険(ほけん 、英:insurance)とは、偶然に発生する事故(保険事故)によって生じる財産上の損失に備えて、多数の者が金銭(保険料)を出し合い、その資金によって事故が発生した者に金銭(保険金)を給付する制度。

"保険" (Wikipedia)

例えば、100人に1人がかかる病気があり、その治療に要する費用が100万円だとします。このリスクを100人でシェアすれば、1人あたりの拠出額は1万円となりますね。1万円の拠出で100万円のリスクに備えることができる、というのが保険の本質であろうと思うわけです。

契約者と保険会社の間に締結される保険契約において、保険金と保険料の間では以下の関係が満たされることが要請される。これを給付・反対給付均等の原則と呼ぶ。

P = ωZ

ここでPは保険料、ωは定量化された保険事故のリスク、Zは保険金を表す。この原則は、保険事故発生のリスクを媒介として保険金(給付)と保険料(反対給付)が等しくなるように要請されていることを示す。

"保険" (Wikipedia)

”自分達が支払った保険料が保険金として返ってくる”という言い方が、確率上の期待値のことを指しているとすれば、それはそのとおりなのかもしれませんが。普通は、リスクが顕在化して発生した損失に対する補填を受けるか、そうでなければ、ただ保険料を支払っただけで終わるわけですから、”返ってこない”のが当たり前のものであろうと思います。民間の損害保険の類は、基本的にそういったものですよね。

社会保険というのは、健康保険と年金とからなるのでしょうけど。

健康保険については、損害保険と基本的な考え方は同じでよかろうと思います。医療保険を国民全てが必要とするのであれば、個々の民間保険会社の被保険者集団でリスクをシェアするよりは、国民全員でリスクをシェアした方が効率が良いでしょう。老人、小児、妊産婦、持病のある人等の「高リスクな」人々が、保険に加入できなくなる、という事態を防ぐだとか、政府が保険者になることで、医療機関に対する価格交渉を有利に進められるだとか、他にも色々とメリットはあります。

年金は損害保険とは性格を異にしている感じですね。とはいえ、積立方式ではなく、賦課方式であるわけですから、もともと、預貯金でもなければ、投資信託のようなものでもないわけですよね。世代間扶助の仕組み、であるとしか私にはわかりません。いずれにせよ、賦課方式であるということは、何十年にも渡る超長期の経済リスクを考える必要もなければ、運用の巧拙を問う必要もない、ということでしょう。

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2008年5月24日 (土)

どの登場人物に感情移入するか

ということだと思いますけどね。

また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。

ケーキ (福耳コラム)

ある種の「物語」を聞いて、登場人物の誰に自分を投影するかによって、違った感想がでてくる、というのは、当然あると思うのですよね。上の災害現場でのトリアージに関していえば、自分の立場を、医師におくか、患者におくかによって、やはり見方は異なるでしょうね。

もっとも、「かわいそう」という感想は医師にしろ患者にしろ、当事者からは出てこないようにも思えますね。むしろ、その場面をみている第三者、傍観者の見方という感じです。モラトリアムという語は、どこか「社会の傍観者」というニュアンスを感じさせますね。まさにモラトリアム期間にある学生達が、そういった実社会で起きている「物語」に対し、傍観者の見方をする、というのは、無理からぬという気もします。

確か実話をもとにした小説で ― 題名も著者名も失念してしまったのですが 、次のような話があったと思います。

さる小さな島で火山が噴火した。火山流が海岸沿いの集落に達する前に、船で島から脱出しなければならない。しかし、島民全員を乗せるだけの船はない。島の人々は船に殺到し、船が満員になっても、とりすがって「乗せろ」という。このままでは、船は出港できず、全員が火山流に呑まれてしまう。そこで、船頭は、とりすがる人々の腕を鉈で次々と切り落とし、船を出港させた。結果、船に乗せることのできた島民は、助かることとなった。

私がこの話を読んだとき、最初に感情移入した登場人物は、船頭氏でした。この切迫した状況下で、こうした過酷な決断を迅速に行い、即座に実行に移す。自分ならできるだろうかと考え込んでしまいましたね。そして、この船頭氏の決断力・行動力に唸ってしまったわけです。

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2008年5月11日 (日)

価格メカニズムによらない市場

何でしょう? ちょっと、意味がわかりませんでした。

市場回すのにどうしても欠かせないのが、「命の値段」。疾患ごと、状況ごとに、病院が患者さん側に支払うべき「標準価格」みたいなもの。こればっかりは、政府の代表者に決めてもらわないといけない。

今はまだ、誰も「命の値段」をつけようなんて思ってないみたいだし、裁判所が決定するそれは、残されたご家族の心情とか、病院側の態度とか、もっと個人的な状況が「価格」に反映されるみたいだから、そんな流れの先に「市場」は見えない。

安全の市場化 (レジデント初期研修用資料)

市場メカニズムというのは、価格決定を通じて、需要と供給が調整される過程をいうのですよね。価格が固定されると、市場は機能しないように思えますね。素直に読むとですが。

この場合、「命の値段」というのは、医療訴訟で賠償額に上限を付けるとか、あるいは、無過失補償制度のようなものを指しているのでしょうか。

また建設業の話になりますけど。例えば、建築基準法ですとか、土木示方書といったものは、建設物が満たすべき最低限の”安全性”というものを決めていますよね。技術者がやるのは、その”安全性”をぎりぎりクリアするような設計を作り出すことであったりします。

当然のことながら、安全性とコストは正比例する関係にあるわけでして、安全性を高くすれば、コストも高くなるわけです。業者は市場原理のなかで、価格競争をやっているわけですから、”安くつくる”が至上命題でして、安全性というのは、最低限でなければなりません。この最低限の安全性を政府が定めるということは、やはり必要なことでしょうね。例え建設物が崩落したとしても、基準をクリアしている限り、業者が法的責任を負うことがない、ということを担保できるわけです。

とはいえ、昨今の耐震偽装騒動をみるに、このやり方も完全ではないですけどね。価格競争が行き過ぎれば、やはり良心よりパンをとる業者は出てきます。また、業者が一定の範囲で免責されるかわり、基準を作る政府が責任を負うことになっていますが、政府といえども負えない責任はあるわけでして。国庫も無尽蔵ではありませんから。政府が到底クリアできないような基準を作る、という事態は起こりえますね。

医療市場を回すのに必要なのは、やはり法的責任が免責されるような基準を政府が作ること、のようにも思えますね。医療という分野でこれが可能なのかどうか、というのはわかりませんけど。建物の強度みたいに、明快な数字は出てこないでしょうし。

まだ東京大学で先生をしていたときのことである。筆者は東京女子医大の先生たちと、鼓膜の力学的特性についての共同研究をしていた。そこでとても驚くことがあった。ナント、言葉が通じないのである。といって、医者は日本語を話さないということではない。「数(かず)」を全然使わないで議論をするのである。

たとえば、人の体を対象として扱うとしよう。こういうとき、筆者たち技術屋はまず、「体温36.5℃」とか、「鼓膜の張力31.3mN(ミリニュートン)」といった「数(かず)」で表わす。「数(かず)」で表さないことには、工学的な思考の対象にならないからである。ところが、医者の世界は違うのである。「温かい」とか「冷たい」、「固い」とか「やわらかい」といった、非常に感覚的な言葉で表現するのである。

畑村洋太郎 著, 『数に強くなる』, 岩波新書(新赤版)1063, 2007

何か、コンピュータ・ソフトウエアの世界とだぶりますけども。個々の事例での違いがありすぎると、使える数字はなかなか出せない、ということかもしれません。数字が出ない、というのは、議論の説得力という面で、なかなか苦しいことになるわけですけどね。

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2008年5月 6日 (火)

思考の余剰

これは面白いですね。

思考の余剰の大きさについてもう少し考えてみよう。それはあまりにも大きいため、ほんの小さな変化でも大きな結果を生み出しうる。たとえば99%は変わらず、みんな今までと99%までは同じようにテレビを見るが、1%は何かを作り、公開することに使ったとしよう。インターネットにアクセスできる人々が1年にテレビを見る時間は、おおよそ1兆時間になる。アメリカにおける年間の消費時間の約5倍だ。その1パーセントは年間10,000のWikipediaプロジェクトへの貢献に相当する。

Clay Shirky / 青木靖 訳, 『ジン、テレビ、社会的余剰』, 2008年4月26日

社会が豊かになって、人々が多くの余暇を持つことができるようになった、さてその余暇を何に使っているか? ― テレビを見ている、という話は有名ですね。どこか皮肉な話でもあるわけですが。インターネットによって、もう少しマシなことに余暇を使うようになるのか、興味のある話です。

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2つの科学

あるものが科学ではないといったところで、そこに何かあやまりがあるということにはならない。単に科学ではないというだけのことである。

坪井忠二 訳, 『ファインマン物理学 Ⅰ』, 岩波書店, 1986, p33

もともと、科学には2つのベクトルが異なる潮流があるようでして、それは、ガリレオが『新科学対話』で対置した、”新科学”と”旧科学”であるようです。”旧科学”というのは、ガリレオの著作では、”アリストテレス主義”と呼ばれているようです。これは、思弁と演繹的論理に重きをおき、実験・観測といった帰納的、あるいは技術的な方法を否定する ―― アリストテレスに言わせると”奴隷の仕事”  ―― もののようです。

レオナルド・ダ・ビンチの『絵画論』には「経験から産み出される知識は機械的 (meccanica) で、精神から生まれた知識は科学的 (scientifica) である」とある。つまり当時は機械的技芸と自由学芸の対比に経験と精神の対比が投影され、「経験」が頭脳の働きをともなわないもの、理論を欠落したものとして、精神すなわち思弁の下位に置かれていた。

山本義隆 著, 『16世紀文化革命 1』, みすず書房, 2007, p.17

同書によりますと、”機械的 (meccanica) ”というのは、 「手でおこなわれる」、「頭をつかわない」といった意味があり、「奴隷のする下賤な仕事」というニュアンスで使われていたとか。

少なくとも、16世紀西洋において、科学という言葉は、アリストテレス的な”旧科学”を指していたわけでして、その内容は、プラトン、アリストテレス、エウクレイデス、プトレマイオス等の、古代ギリシャ・古代ローマのラテン語文献の文献学であったようです。また、当時、教養という言葉の指すものも、こうした文献であったそうで。これは、ルネサンス ―― ”文芸復興”、という名で知られる動きでもあります。

同時期に、印刷技術が発達したことにより、芸術家や職人、技術者といった、”庶民”の人々が、自らの経験から得られた知識を、ドイツ語、フランス語、英語等の”俗語”によって記し、出版して公開するといった動きが起こったのだそうですが、こうした”経験知”の公開が、”新科学”の樹立へと繋がっていったようです。ガリレオが地動説を”発見”する過程というのが、望遠鏡の製作という、当時下賤と考えられていた、”手仕事”に始まったのは、注目すべきことでしょう。

”新科学”では、”旧科学”が軽んじ、蔑んでいた、”経験知”を積極的に取り入れ、仮説を実験や観測によって、帰納的に実証する、といった手法に重きを置くようになります。その後、”新科学”、すなわち近代科学は大きな成果をあげることになり、現代では、科学といえば、こちらを指すようになっているわけです。

我々の見方からすれば、数学は自然科学ではないという意味で、科学ではない。数学の正否をためすのは実験ではない。

坪井忠二 訳, 『ファインマン物理学 Ⅰ』, 岩波書店, 1986, p33

しかし、アリストテレス主義的な考え方というのも、根強く残っているようでして。

それは、たとえば、「問題の純粋に知的な側面よりも視覚的な側面」だとか、「研究者の中には、人間の個性において言葉の側面に匹敵する重みを、知的にはずっと劣る側面に与えたがっている者がいる」とかである。このような表明のあるものは、自信に満ちたお偉い方々のあからさまな言明であり、また別のものは、心眼によるイメージよりも言葉のほうが本質的に優れているという、学者たちの無意識のうちの前提を覗かせてくれる窓になっている。

E・S・ファーガソン 著, 『技術屋(エンジニア)の心眼』, 平凡社, 1995, p.66-67

「言葉による思考」に最高の地位を与えたのは、まさしくアリストテレスその人であったように思います。こうした考え方は、古代ギリシャの哲学から、16世紀の”旧科学”を得て、現代にも受け継がれているのでしょう。

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2008年4月29日 (火)

生命表というもの

河野 稠果 著 『人口学への招待』 (中公新書, 2007)1 p.47 より。

 ... 近年年齢が高くなると死亡率は高くなる傾向にあることが理解されるであろう。人間は老人になれば死ぬのだからそれは当たり前ではないか、と思われるかもしれないが、実は戦前はおろか、かなり最近まで当たり前ではなかったのである。生まれたばかりの乳児は死亡率がゼロで、そこから年を取るにしたがい右肩上がりに高くなっていくのではないかと思われるかもしれないが、戦前は実は全く違っていた。1921〜1925年頃は W の字が変形したような形をしていた。

厚生労働省が 生命表 というものを公表していまして、ここで、男女別の死亡率、死亡数、生存数、平均余命をみることができます。最新は、 第20回(平成17年)生命表 のようですね。

昭和22年(1947年)からの推移がわかりますが、確かに W の字の形になっていたことが推察されます。

Article_20080429_01_2

Article_20080429_02_2

Article_20080429_03_2

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死亡率 qx の定義は、「年齢 x 歳 に達したものが、 x + 1 歳 に達しないで死亡する確率」2 とあります。年齢階級別に死亡数をその人口で割ったものと考えて良いのでしょう。死亡数 dx は、基数10万人から始めて、年齢階級別に生存数に死亡率をかけて求めてたものです。


1.

人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか (中公新書 1910) Book 人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか (中公新書 1910)

著者:河野 稠果
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2. 平成18年簡易生命表 参考資料1 生命表諸関数の定義

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2008年4月24日 (木)

私が死刑制度に反対な理由

ある種の”卑劣さ”を感じるからですね。元来、他者の死を求める者は、自身の命をその代価とせねばならないはずでして。人を呪わば穴2つとでもいいますか。

かのハムラビ法典の第1条には、他者の死刑を求める者が、その立証を行なうことができなかったとき、その者は死刑になる、とあったと思います。目には目を、死刑には死刑を、というわけです。

また、イギリスには、19世紀まで、殺人罪その他重罪に関し、決闘裁判なる制度が存在していました。これは、その名のとおり、原告・被告の双方が、互いの命を賭け決闘を行い、正邪を決する、という制度です。自身の手袋を投じるのが、その宣言の儀式であったとか。これは、原告・被告のいずれかが望めば、行なうことができたようです。

もともと、刑事裁判というのは、現在のように、国家が訴追を行なうのではなく、民事裁判と同じく、私人間の争いとして行なわれていました。この場合、おそらく、刑を執行するのもまた、私人たる原告であったのでしょう。とすれば、死刑を望み、勝訴を得た場合でも、結局、自身の手で被告を屠らねばならないわけです。当然、被告は黙って殺されたりはしないでしょうから、不意を打ってでも返り討ちにする事態が予想されるわけでして、決闘裁判によるのも、一定の合理性はあったのでしょうね。

現代では、刑事裁判では、国家が訴追を行なうようになっています。問題は、国家という実体のない存在が主体となることで、訴追側の誰もリスクを負わなくなったことでありましょう。かっては命賭けで行い、自らの手を汚す必要のあったものが、現代では、被告人を除いて誰の命の危険もなく、また、手を汚すのも限られた人間となっています。かってより、被告人の命は軽く扱われているかのように思えます。

民主主義国では、国家の主権者は国民であるわけですから、死刑を執行する主体もまた国民である、といえるでしょう。とすれば、死刑執行人を国民の中からランダムに選び、その者が刑を執行する、というのも理にかなうと思います。死刑制度に本気で賛成する者であれば、自らの手を汚すことも厭わないはずです。辞退するのは自由で、その場合は刑は執行されないことにします。受刑者と”決闘”する、というのはさすがに無理でしょうから、受刑者が抵抗できない状態で殺すということでよいでしょう。

こうしますと、国民の中に死刑賛成の者がある程度存在し、その者が執行を行なう限り、死刑制度は存続します。辞退多数で刑の執行が行なえなくなれば、そのときには廃止することになります。

どうでしょうかね? もちろん、その際には、私は慎んで辞退させていただきますけどね。

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2008年4月20日 (日)

消極的司法と「ねじれ国会」

本題とあまり関係ない感想ですが。

司法も対案示してほしい (レジデント初期研修用資料)

裁判所が、判決で暗に立法を促す、ということはあるはずでして、広い意味で”対案”を示す、ということはあるでしょうね。そして、三権分立という点から、こうした行為を、”司法権の逸脱”として批判する、というのは、よくあるようです。

しかし、三権分立というのは、立法・行政・司法が互いの領分を守って仲良くしましょう、ということではないように思いますけどね。当然、三権が激しく対立する事態をも含意しているはずです。かって、アメリカで、最高裁がニューディール立法をことごとく違憲として、議会と対立したように。

三権分立という言葉は、多義的で、いかようにもとれるところはあるのでしょう。日本では、互いに対立せずに、自らの仕事に専念すべし、という意味が与えられることが多いように思います。

何か似ているな、と思ったのが、いわゆる「ねじれ国会」という言葉。国会というのは、粛々と法律を処理するだけの場所ではなく、議論を交わすべき場所であるはず。また、上下両院に分かれているということは、制度上、上下両院が激しく対立する、という事態は含意しているはずです。「ねじれ国会」なんて事態は、起こって当然の現象だろうと思うわけです。

権力の対立というのは、もともと民主主義のシステムに組み込まれており、それが起きるのは、それこそ、民主主義が正常に機能している証じゃないのですかね。この国には、対立というのがお嫌いな方々が多い、ということなのでしょうか。

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「もっと勉強してください」

ときどき見かけるこの発言ですが。少なくとも、”職業としての専門家”の発言ではないでしょうね。

知識ある者は、常に理解される責任をもつものとされてきた。素人は、専門家を理解するために、努力できるし努力すべきであるとしたり、専門家は、ごく少数の専門家仲間と話ができれば十分であるなどとすることは、野卑な傲慢というべきである。

大学や研究所の内部においてさえ、残念ながら今日珍しくなくなっているそのような態度は、彼ら専門家自身を無益な存在としてしまい、彼らの知識を、学識から衒学に変えてしまう。

P.F.ドラッカー著, 上田惇生訳, 『経営者の条件』, ダイヤモンド社, 1995, p. 82-83

素人がいるから、専門家であるわけでして。素人がいなければ、専門家もいないわけです。専門家というのは、自身の専門的知識をもって、素人に貢献するのが、その仕事であり、”飯の種”となっています。自身の専門分野について、必要なことを素人に理解させることのできない専門家というのは、確かに”無益な存在”であることでしょう。

Joel Spolsky 氏の分類に従うならば、この種の人間は、以下の2種類になりそうです。

  • 頭は良いが、成果の出せない人間
  • 頭が悪くて、成果の出せない人間

前者の例は、今まさにソフトウエアを出荷しようという段階で、特定箇所の実装の良否について議論を始めようとするような人間だそうで。”もっと勉強して”から、出荷するわけですな。この調子ですと、いつまでたっても出荷はできないわけですが。

もちろん、必要なことを素人に理解してもらう、というのは、簡単なことではないですけどね。コミュニケーションの重要性が声高に叫ばれているのも、専門分化の著しく進んだ現代にあって、異なる分野の専門家同士が協力することの困難さの表れでしょう。ある分野の専門家は、別の分野では素人であるわけですから、やはり、必要なことを素人に理解してもらわなければならないわけです。

職業として専門家をやっている人間にとっては、このようなことは百も承知のことでしょうけどね。日々、顧客にどうやって必要なことを理解してもらうか、ということに頭を悩ませているはずですから。

職業としては専門家をやっていない人間の場合。一体、自分の知識をもって他者に貢献しようとしているのか、それとも、自分の知識を自慢したいのか、あるいは、他者の知識のなさを笑いたいのか。自覚するのは難しいのかもしれませんね。

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2008年4月17日 (木)

Quality は従属変数

システム開発プロジェクトの3条件といえば、 Quality (品質)、 Cost (コスト)、 Delivery (納期) のいわゆる QCD と呼ばれるものになります。これらは、相互に関係していまして:

 Q = f(C, D)
 C = g(Q, D)
 D = h(Q, C)

といったような形になっているはずです。

しかしながら、現実には、 Cost と Delivery は、独立して決まることが多いわけでして。その結果、これらが独立変数となり、 Quality が従属変数となります。

 q = f(c, d)

また、 一般に、 Cost はより少ない方が、 Delivery はより短いほうが良いでしょう。

 c -> min, d -> min

そうしますと、 これらと Quality との関係は、以下のようになるかと思います:

 c -> min, d -> min ⇒ q -> 0

つまり、何もしなければ Quality はゼロへと向かいます。

Cost と Delivery には、計画段階でも、明確に定量的基準(つまり”数字”)が存在します。対して、 Quality というのは、定量化が難しい、あるいは不可能であるかと思います。事後には、ユーザの満足度等の数字を出すことで、ある程度定量化はできるでしょうが。計画段階では、部分的には定量化できる(処理性能、稼働率など)にしても、総じて定性的にしか定義できない(利便性、経営への貢献度など)と思います。

結果として、 Quality というのは、計画段階においては無視される傾向にあるわけです。

...といったことが、医療分野の Cost、 Access, Quality についても当てはまるのでは? と思ったのですが。私ごときの知識では書けそうにありません。

イキナリ私の答えを言っちゃうと、1)コストをかける、2)アクセス制限、3)医療の質をあきらめるのうち、どれか好きなのを選んでくれ、ということになる。

待ち時間問題 "Cost, access, quality. Pick any two." (NATROMの日記)

3つのうち2つを選ぶとすると、 ほぼ自動的に Cost と Access になりそうな予感。なぜなら、相当程度、定量的に、明確に表せそうだから。

 c -> min, a -> max ⇒ q -> 0

かくして、 Quality はゼロへと向かうのかもしれませんね。

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2008年4月15日 (火)

認知的不協和論文の確率計算

認知的不協和理論の論文の誤り (Okumura's Blog) より。

元の実験では、まず猿に赤と青のM&Mのどちらかを選ばせ、赤を選んだ場合、次に青と緑から1つ選ばせる。この場合、青と緑では緑のM& Mを選ぶ確率が高くなることから、赤と青では赤の方が好みだっただけなのに「青が好きじゃなかった」と自身に思い込ませることから青の順位を下げてしまうと結論づけられている。

心理学者は確率計算が苦手? (スラッシュドット・ジャパン)

猿の集団には、以下の3群が3分の1ずつ存在するとしまして:

  • 赤が一番好き
  • 青が一番好き
  • 緑が一番好き

最後の集団(緑が一番好き)は、最初の選択(赤か青)では、一番好きな色がありませんので、二番目に好きな色を選びます。このため、一番目に赤を選び、二番目に緑を選ぶ猿の集団というのは:

(赤が一番好き かつ 緑が二番目に好き) + (緑が一番好き かつ 赤が二番目に好き)

となりますね。

対して、一番目に赤を選び、二番目に青を選ぶ猿の集団は:

(赤が一番好き かつ 青が二番目に好き)

のみとなります。よって、 2 : 1 で緑を多く選ぶことになる、ということでしょうかね。

一応、Rubyプログラムを書いて確認しておきます。

# free_choice.rb

RED = 0
BLUE = 1
GREEN = 2

blue_sels = 0
green_sels = 0

(1..100000).each do |i|
  first_sel = rand(3)
  if first_sel == GREEN
    second_sel = rand(2)
    green_sels += 1 if second_sel == RED
  elsif first_sel == RED
    second_sel = rand(2) + 1
    blue_sels += 1 if second_sel == BLUE
    green_sels += 1 if second_sel == GREEN
  end
end

puts "#{green_sels}:#{blue_sels}"

以下が、実行結果です。

>ruby free_choice.rb
33364:16601

緑 : 青 が 33.4% : 16.6% となりました。

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2008年3月29日 (土)

建設業の現状 − 談合の話じゃなかったりする

興味深い記事なのですけど。

問 最初に談合組織が解体した民間建築では1990年代後半以降、工事単価は低下し続けています。公共工事でも、受注のために予定価格を大幅に下回る金額で落札する業者の存在が問題になりました。過当競争にある建設業界ではダンピングが起きやすい。

答 単価の下落もそうだが、私らにとってきついのは工期。液晶工場などは典型だが、グローバル競争に勝つために、一日でも早う造れと。発注者から見れば、工事単価と工期がすべて。ゼネコンにしてみたら売り上げのために受注がほしい。2つの要素が絡み合うたわけや。そのしわ寄せが下請けに来とる。

談合消滅後の建設業界で何が起きているか (ニュースを斬る) NBonline(日経ビジネス オンライン)

”民間建築で談合”って、あまり聞きなれないですね。民間建築で談合摘発っていうのは、耳にした覚えがないですねえ。談合が問題にされるのは、民間工事ではなくて、公共工事ではないのでしょうか。民間工事で談合って、あるんですかね。価格カルテルってことになるのでしょうか。

”民間建築では1990年代後半以降、工事単価は低下し続けてい”るのは、公共工事での談合とは、直接には関係ないように思いますけどね。民間工事と公共工事では、話が違うでしょうから。民間工事に関しては、主としてバブル崩壊後の不景気とデフレのせいではないかと。

問 談合組織が消滅したことで、ダンピングが激しくなったと。

答 違う、勘違いせんといて。談合がなくなったからダンピングが起きたわけではないよ。ただ、発注者の力が強くなりすぎているのは確か。ゼネコンがお施主さんに何も言わへんねん。言うと嫌われるから。仕事欲しさに安値で受注して、そのしわ寄せは現場の職人や。

インタビューアーは、公共工事の談合と、その業界への影響について聞きたかったのでしょうけど。話はもっぱら、民間工事での価格下落と、工期の短期化の話になっていますね。談合の話は、最初の問答だけで、終わっているようです。

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機会の平等と結果の平等

私も、”機会の平等”、”結果の平等”という言葉の意味について、いろいろと疑問に思っていまして。続きの気になる記事です。

格差に関して,多くの論者が用いる整理は「結果の平等と機会の平等」という二分法です.例えば所得に関して,実際の実現所得が小さい(大きい)ことが結果の平等(不平等)なのに対し,より多くの所得を稼ぐ機会が誰に対しても開かれている(いない)ならば機会の平等(不平等)というわけです.

機会の平等ってそんな簡単な話じゃないんです (WIRED VISION)

”機会の平等”を確率的に公平なゲームのことであるとするならば、ゲームの参加者全員の利得の期待値は同じになるはずでして。この場合、ゲームを十分な回数繰り返せば、ゲームによって得られる利得は参加者全員が同じとなるのですよね。そうしますと、機会が平等であるというのは、すなわち結果が平等となることになるわけでして、両者を区別するものは何なのか、そもそも区別する必要はあるのか、という疑問が出てきます。

一対一の賭,じゃんけんで負けたら,相手に100円払うというゲームについて考えます.じゃんけんそのものは公正で,支払いも約束通り履行されることがわかっているとしましょう.つまりは参加者双方にとって平等なルールで行われる賭というわけです.

【略】

仮にAさんは100円しか持っていないのに対し,Bさんは300円もっているとしましょう.この時,Aさんは始めの1回で負けてしまえば破産し,これ以上ゲームにとどまることは出来ません......全財産である100円を取られてお終いです.1回勝ってはじめてAさんとBさんは五分の勝負になるわけですから,Aさんの勝利確率は1/4,Bさんのそれは3/4ということになります.ちなみに,このゲームでの勝利確率の比は当初の手持ち金額の比そのものになります.ひとつひとつのゲームに不平等がない一方で,ゲームが繰り返されたときにその勝敗を決めるのは初期条件である手持ち現金額なのです.

さて,このゲームでは機会の平等は保証されているのでしょうか? それともされていないのでしょうか?

何をもって”勝ち”、”負け”とするのかが、あまりはっきりと書かれていませんが。

おそらくこれは、ゲームを繰り返し、 A, B いずれかの所持金がゼロになった時点でゲームが終了し、所持金ゼロとなった方が”負け”、ならなかった方が”勝ち”と定義するのだと思います。

Aさんについて、このゲームを考えてみますと、以下のようになります。

回数 事象 所持金
1回目 勝ち 200円
   負け ゼロ
2回目 勝ち ⇒ 勝ち 300円
   勝ち ⇒ 負け 100円

Bさんについて、このゲームを考えてみますと、以下のようになります。

回数 事象 所持金
1回目 勝ち 400円
   負け 200円
2回目 負け ⇒ 勝ち 300円
   負け ⇒ 負け 100円

1回目でAさんが勝ち、Bさんが負けると、両者の条件が同じになります。つまり、所持金が同額となります。以降のゲームで、Aさんが勝つ確率は 1/2 であるとしますと、ゲーム全体でAさんが勝つ確率は、 1/2 ・ 1/2 = 1/4 である、ということなのでしょうね。そうしますと、Bさんが勝つ確率は、 1 - 1/4 = 3/4 です。

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2008年3月28日 (金)

教える側のインセンティブが問題

教育というのは、手間・時間と、忍耐が必要な仕事だと思います。

SEマネジャが入社2・3年生までの若手SEに何かやらせる時は,段取りを教え,手取り足取りして正しいやり方を教えることが重要だ。単に「あれをやっておけ,これをやっておけ」などと言うたぐいの,指示だけするのは厳禁である。

若いSEには段取りを教え,手取り足取り指導せよ 馬場史郎のITプロに贈る"今日の一言" (ITpro)

口で言えば30分で済むことでも、教えないと本人が気づくまで2・3日かかることもあります。でも自ら気づき、学んだことでないと身につきません。教えてもらおうと思うのが間違い。言葉や頭で、分かった気になるのが一番ダメです。教えずに耐える方も大変ですわ

教えるためには、教えてはいかん(INSIGHT NOW!)

学生はできるだけ自分自身で問題を解く練習をしなければならない。しかしもしもここで彼が充分助けて貰わないですてておかれるならば、殆ど進歩しないであろうし、又教師が助けをしすぎるならば学生は何も得るところがないであろう。教師は手を貸さなければならないが、それは多すぎても少なすぎてもいけない。学生はいつも自分で 適当な仕事の分け前 を果たさなければならない。

G.ポリア 著, 柿内賢信 訳, 『いかにして問題をとくか』1, 丸善, 1954

ナレッジ・マネジメントや、情報共有の案件での、定番の問題として、いかにして情報を出すインセンティブを与えるか、というのがあります。職場での教育に関しても、同じ問題があると思います。教える側のインセンティブの問題というのが。

教える側としては、もともと、教育を行なうインセンティブというのは、薄いです。”長い目でみれば”、つまり、超長期的には、大きなリターンが期待できるかもしれませんが。この場合、リターンは計れるようなものでもありませんので、現在価値 − 100年後の100万円と明日の1万円 − という問題は別にしましても。超長期の投資を、何の保証も担保もなく、リターンが得られる見込みもなく行なう者は稀であろうと思うわけです。

伝統的な徒弟制度では、”弟子”は”師”に絶対の忠誠を近い、懸命に奉仕を行なうことで、自分が必ずやリターンをもたらす人間であることをアピールしている、という見方もできます。自分は長期にわたって信用できる人間であるから、ぜひ投資をお願いします、というわけです。

こうした徒弟制度は、古臭いもの、今の時代にそぐわないものとして、長らく否定される傾向にありました。しかし、その代わりに、教える側、教わる側の両者でインセンティブのバランスをとる方法があるかといえば、ないわけです。結局、各自が自己責任で学ぶべし、で終わってしまった感があります。

これでは、技術の伝承はできず、また、組織として知識や技術を蓄積していくこともできない、ということで、最近になって色々と模索を始めているわけなのですが。

アメリカから、コーチングとかいう概念が日本に輸入されていますが、これなどは、”師の心得”のごときもののように思えるわけでして、現代に徒弟制度を蘇らせようとする試みにも思えますね。ソフトウエア開発の世界では、もっと直接的に、”徒弟制度に回帰すべし”と主張される方2もいらっしゃるようです。

”徒弟制度”なのか”自己責任”なのか、別の方法があるのか、暗中模索は続きそうですね。


1.

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2.

ソフトウェア職人気質―人を育て、システム開発を成功へと導くための重要キーワード (Professional Computing Series)Bookソフトウェア職人気質―人を育て、システム開発を成功へと導くための重要キーワード (Professional Computing Series)

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2008年3月26日 (水)

成功を重ねるほどハードルは高くなる

困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)Book困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)

著者:R.P. ファインマン
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ファインマン氏のスペース・シャトル チャレンジャー号爆発事故調査の報告書について、以前とりあげたのですが。

リチャード・ファインマンのエンジニアリング考

事故調査のいきさつは、『困ります、ファインマンさん』(大貫昌子 訳, 岩波現代文庫, 2001)で、日本語訳が読めます。例の”確率10万分の1”についても、ずいぶんと憤慨されている様子が描かれています。

「HPHTPパイプが破裂する確率は一〇のマイナス七乗」などと書いてあるが、そんなことが簡単に計算できるはずがあるものか! 一千万に一つなどという確率を概算するのは、ほとんど不可能に近いはずだ。エンジンの一つ 一つの部分につけた確率の数字は、あとで全部を足せば一〇万に一の確率になるように、はじめから細工してあるのは見えすいていた。

同書 p.264

この一編の”あとがき”の部分で、ファインマン氏が後に振り返っての感想がありまして。

NASAでなければできない計画があるといって議会を説得し、予算を獲得しなくてはならないし、そのためには少し大風呂敷を広げる必要が出てくる(少なくとも今度のシャトルの場合は、それが確かに必要だったようだ)。

同書 p.312

開発の初期には、大いなるチャレンジであったものが、成功を重ねるうちにいつしか当たり前のこととなり、目新しさに欠けるがゆえに、”売り込み”に苦慮するようになってしまうわけですね。その結果、幹部は外部に対し誇張した説明を行なうようになり、それに反する現場の技師の意見は省みられなくなる、”知らなかった””聞いていない”ということになる、という考察がなされています。

どんな仕事でも、成功を重ねるほどに、その仕事に求められる要求水準というのは、とめどなく上がっていくものですが。成功が当たり前とみなされるようになったとき、人々が考える水準と現実に現場の人間が知る水準との間には、大きな乖離が存在するのかもしれませんね。そう、およそ300倍以上もの。

「やっぱり技師連と管理側の間にはだいぶギャップがあるようですな。三〇〇倍以上のギャップがね。」

同書 p.263

こうしたことは、ある程度成熟した組織では、どこにでもみられる光景なのでしょう。

だから、僕はしばしば、高潔さと宮仕えとはどんな関係にあるのだろう? と考えずにはいられないのだ。

同書 p.263

難しいですね。企業に勤める身としては複雑なところです。

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2008年3月 5日 (水)

再分配所得のジニ係数

税・社会保障の再分配によるジニ係数の改善度は、近年、調査毎に大きくなっており、26.4%で過去最高。なお、世帯単位でみたジニ係数は、当初所得では0.5263 、再分配所得は0.3873 。(高齢者世帯の増加等により当初所得のジニ係数は年々大きくなっているが、再分配所得のジニ係数は平成11年調査以降0.38 台で推移している。)

平成17年 所得再分配調査 (厚生労働省) 結果の概要 p.2

この「再分配所得のジニ係数」というのが、よくわからないのですよね。

一世帯当たりの平均当初所得は465.8万円であり、この当初所得から税金(45.4万円)、社会保険料(52.2万円)を差し引き、社会保障給付(181.4万円)を加えた再分配所得は549.5万円となっている。

平成17年 所得再分配調査 (厚生労働省) 所得再分配調査結果 p.7

調査結果の p.9 に「世帯類型別所得再分配状況」というのがありまして、「一般世帯」(世帯数 4,373)、「高齢者世帯」(世帯数 1,233)、「母子世帯」(世帯数 83)のそれぞれについて、内訳が載っています。 「一般世帯」の社会保障受給の内訳は以下のとおりとなっています。

受給合計額 145.2
年金・恩給 71.6
医療 54.3
介護 11.3
その他 8.0

「一般世帯」は、平均で年間145.2万円の社会保障給付を受けているということですかね。ジニ係数は、当初所得 0.4252、 再分配所得 0.3873。

調査結果 p.7 「当初所得階級別所得再分配状況」をみると、当初所得50万円未満〜1,000万円以上までで、50万円刻みで階級分けされた値がありますけど。すべての所得階級で年間100万円以上の社会保障受給がありますね。何でしょうかね、これは。こういうものなのでしょうか。

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2008年3月 4日 (火)

IT企業の教育費

インドのIT大手インフォシスの教育費は売上高の 5% に達するのだそうです。

興味を持ったのは、その教育費。なんと、売り上げの5%、200億円を投じている。この200億には、企業内大学のキャンパスの建築費などは含まないそうだ。  スリラムさんによると、「IT企業は結局人しかない、だから我々はこれに投資する他はない」

 おそらく日本のIT企業で、売り上げの5%という数字を教育にあてている企業は、そう多くないのではないだろうか。通常は1%、ないしは、ゼロケタ台というのも関の山だと思う。いかに、教育のために投資されている予算が少ないか、この数値である程度は推察できる。

企業内教育とお金(NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 : 「大人の学び」を科学する)

確か、日本のIT企業の教育投資は、売上高のゼロ点何パーセントとかでしたね。

「先進のソリューションによる経営効率の改善」。このお題目が最も遅れている産業、それが情報サービス産業だ。事実、「JISA基本統計調査  2006」によると売上高情報化投資率は平均で0.79%、中央値で0.58%しかない。これに対して「国内IT投資動向調査報告書 2004」(ITR)によれば、国内平均の情報化投資率は平均1.9%(同報告書の『2006』では2.8%、『2007』では3.2%)で大きな開きがある。

 さらに、情報サービス産業の「売り上げ研究開発投資率」は平均1.02%、中央値0.01%。人材育成の要となる教育投資率は平均で0.38%だ。

あらためて衝撃 日本のソフト産業を統計分析する(@IT)

JISA(社団法人 情報サービス産業協会)基本統計調査 2007年版 概要 をみますと、売上高投資率は加重平均 0.37 %、中央値が 0.26% となっていますね。 5% 以上というのは、回答企業のなかではゼロ。1%未満が全体のほぼ 90% みたいですね。

売上高規模を見ると、平均値 209億46百万円、中央値 54億68百万円。確かに、売上高4000億のグローバル企業と、日本国内オンリーのローカル企業の差というのはありそう。しかし、日本国内だけの調査対象企業の売上高を合計すると約8兆円あるわけでして、”腐っても鯛”。中小企業の多い日本の産業の特性もありそうですね。

思うに、「日本ほど、教育に多くを期待しながら、そこにお金をかけない国は珍しい」。一言でいうと、「やい、教育、この問題何とかせい!、金は出さないけど、頑張れ」。そうした風潮は企業内教育であろうと、公教育であろうと、そう変わらない。

 たとえば、日本の教育への公財政支出は、年間国家予算の3.5%である。これは、OECD加盟国30ヵ国最下位(2003年)。  もっとも公財政支出の大きいアイスランド7.5%は別格にしても、フィンランド6.0%、米国5.4%、にも間をあけられ、スロバキア4.3%、チェコ4.3%、アイルランド4.1%、にも負けている。

 それなのに、教育に対する社会的期待は、日に日に増大するばかり。何か問題が起これば、「やれ教育は何をやっている」「やれ、教育のせいだ」という風に「教育」に原因帰属が行われる。「やい、教育、しゃんとせい、何とかしろ」ということになる。

教育への公的支出も先進国中最下位でしたか。

 アメリカでは、教育はどのくらい重要視されてるんだろうか? ああそうだ、財政のリストを見りゃいい − なるほど、だいぶ下の方の、労働安全衛生局と食肉検査の間か。俺たちの子供の面倒を毎日見てくれている人の収入は、平均年収で4万1351ドル。今日のディナーに連れてってくれるのはどこのタバコ会社のロビイストかなってことだけを気にしている下院議員は14万5100ドルももらってる。

【略】

だが何と言っても一番傑作な皮肉は何かというと、アメリカ人の教育に十分な財源を割くことを拒否した当の政治家たち本人が、アメリカの子供たちのデキの悪さにむかっ腹を立てたりしていることだ。ドイツや日本は言うに及ばず、まともな水道と経済力のある国の中でアメリカ以上に成績の悪い国なんてどこにもないってんで、突如として政治屋どもは説明責任を求め始めた。教師に責任を押しつけ、資格試験をしろなんて言い出したんだ。もちろん、子供たちにも試験をやれと − 何度も何度も何度もだ。

マイケル・ムーア著, 松田 和也 訳, 『アホでマヌケなアメリカ白人』, ゴマブックス, 2008年, p.152-157

”教育に対する社会的期待”に関しては、どの国でも同じようなものかもしれません。

・・・

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2008年2月27日 (水)

日本に多元主義はありうるのか

これはまさに、利益団体の寡占独占が生み出した失敗だと思います。「公」って誰が決めるんでしょう。政府?マスコミ?ネット?

「公」は上から降ってくるものではないし、「私」と単純に区別できるものでもない。それは沢山の「私」のぶつかり合いの中からおのずと立ち上る一種の紳士協定であり、ルールです。多数の「私」による積集合が「公」になるのです。まあ唯一常に正当化される「公」があるとすれば、そういうぶつかり合い自体を阻害してはならない、ということになるでしょう。

アメリカは「セイフティネットを自前で用意する社会」である(赤の女王とお茶を)

多種多様な利益団体が、自らの信じる”公益”を主張し、ぶつかり合うことで、社会全体の公益が実現されていく社会。こういうのを多元主義と呼ぶのでしょうか。こうした面で、日本は、より混迷を深めているというのか、何が何だかわからなくなっているような気がします。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏によりますと、かっての日本医師会は、日本では稀有な”普通”の利益団体であったとか。

医師会は、圧力団体として日本以外の国では当然とされる機能を発揮、あるいは、それを上回る働きをして、一九五〇年代以来日本の圧力団体の中でもっともはでな存在となった。他の多くの圧力団体とは違い、医師会は、官僚を懐柔して意志を通すというやり方ではなく、官僚に真向から対決する姿勢をとった。

【略】

政治評論家や新聞の社説は、このようなことは民主的政治をくつがえそうとするものだと論評した。圧力団体は全体のための福祉を考える配慮に欠けており、自己の利益のみ図る、ごり押しをおこなうと非難された。ところが皮肉なことに日本人が圧力団体を非民主的と見ていた六〇年代に、西欧の観察者(オブザーバー)は、圧力団体がでてきたのは、ようやく日本にも”民主主義”が根付き始めたことを示すなによりの証拠として引き合いに出していたのである。八〇年代になっても、圧力団体は西欧では、より本格的な多元主義(プルーラリズム)を進展させる力とみなされている。

しかし、さらに詳しく見てみると、日本では圧力団体がかなり変わった多元主義を推進しているということが判る。医師会は例外としても、日本における力関係はちょうど逆の方向に進展する。つまり圧力団体が政府を”とりこむ”のではなくいくばくかの補助金と最小限の譲歩と引き換えに、官僚と自民党がそうした圧力団体を逆に利用することになるのである。

カレル・ヴァン・ウォルフレン 著, 篠原 勝 訳, 『日本/権力構造の謎 上』(文庫新版), 1994, 早川書房, p.141-144

「政治評論家や新聞の社説は」から「自己の利益のみ図る、ごり押しをおこなう」の部分なんて、今の話じゃないかと思えるほどでして、まあ、日本社会のメンタリティはこのころ(高度成長期)から変わってないなあ、と思います。

かっての日本医師会の”異例”であったところは、自分達の信じる”公益”を堂々と表立って主張したところではなかったか、と思います。逆に”普通”の日本の利益団体は、あまり表立ったことはせずに、政治家や官僚に、自分達の利益を代弁させていたのではないかと。日本社会では、表立って何かを主張すれば、それだけでバッシングの理由になったりしますから、政治家・官僚に”汚れ役”をやってもらう、というのが”普通”のやり方であるのかもしれません。

これが政治家・官僚、そして医師会が叩かれる理由なのかもしれない、と思ったのですが。そうすると、日本の民主主義ってのは・・・、やっぱり、なんだかよくわからない代物であります。

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2008年2月14日 (木)

オープンソースへの貢献と職務著作

Geekなぺーじ : オープンソースに貢献する日本人エンジニアが少ない理由 のコメント欄、

海外ではどうか知りませんが,「就職してから書いたプログラムは,たとえプライベートであっても著作権は会社にある」と,新入社員研修で言われました. プライベートで書いたアプリをフリーで公開したのがバレたら怒られるし,シェアウェアで公開したらすべて没収されます.  (ゆいゆい さん)

をみて、こういうのって法律上は何て呼ぶのかと疑問に思いまして。 特許での”職務発明”というのは、色々報道されていたこともあって、知っているのですが。著作権ではなんと呼ぶのか、調べてみました。

(職務上作成する著作物の著作者)

第十五条 法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。

2 法人等の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成するプログラムの著作物の著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。

著作権法

そのままですが、”職務著作”と呼ぶそうです。会社の従業員が書いたプログラムは、一定の要件が満たされる場合には、会社の著作物になるということです。その要件というのは、プログラムの場合には、著作権法第15条2項より、以下の4点となっているようです。

1. 法人等の発意に基づく
著作物を作成する意思が直接、または間接に法人等の判断による。
2. 法人等の業務に従事する者
雇用関係にある者、法人等の指揮監督下にある者。
3. 職務上作成するプログラム
直接命令されたものの他に、業務の過程において通常予期される範囲で作成したプログラム。
4. 契約、勤務規則その他に別段の定めがない
従業員の著作物とする旨の別段の定めがない場合に限られる。

要件4については、要件1, 2, 3のいずれかを満たさない場合は、『たとえ契約等に法人等を著作者とするとの特約があったとしても、法人等が著作者となることはできない』のだそうでして、従業員の著作物とする契約等がない場合に限定する趣旨であるようです(ややこしい...)。要件2は、雇用関係があるわけですから、当然該当するのでしょう。

そうすると、要件1と要件3に該当するかどうかですね。まあ、これだけ見ても、雲をつかむような抽象的な話でして。広く解せば、プログラム開発を業としている企業に勤めていれば、どんなプログラムを書いても該当しそうにも思えますし、狭く解せば、その企業が現に行なっているプログラム開発と直接には関係のない領域でのプログラムなら、該当しなさそうにも思えます。

業務用ソフトを開発している企業の従業員が、趣味でゲームのプログラムを書く場合とかは該当しないといえるのですかねえ。フレームワークだとか、ライブラリだとか、ミドルウエアのような、何でも使いまわしがききそうなプログラムはどうなのでしょうね。文字コードの変換処理みたいなものは、ほぼジャンルを問わずに使えるわけですが。

・・・

参考

宇宙開発事業団の職員が、人工衛星打ち上げやロケットに関係するコンピュータプログラムについて職務著作にあたるか否かを争った判例です。

知的所有権判例ニュース2006-3 コンピュータプログラムの作成が職務著作に該当すると認められた事例

裁判所 裁判例情報(判例検索システム) 知的財産裁判例 平成12(ワ)27552 平成17年12月12日 東京地方裁判所

以下のページ・書籍を参考にさせていただきました。

Scope::プログラムは職務著作?

コンピュータ・ソフトウェアと法人著作権について

知的財産法 第4版 (有斐閣アルマ)Book知的財産法 第4版 (有斐閣アルマ)

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2008年2月10日 (日)

産業の保護育成

そもそも産業政策がいいとかいうけど、産業を「保護」して「育成」するという考え方自体、どこまで有効なのかもはっきりしない。だってさ、どの産業を保護すればいいのか、どうやってわかるのよ(えらきゃ日本の十年後の成長産業をいま当ててごらん。わかんないでしょ。でも産業保護育成って、それができなきゃ成立しないでしょう)。さらに保護されなきゃ成長できないような産業って、ほんとうに有望といえるの?

山形浩生著 『要するに』, 河出文庫, 2008, p.41

えっ、今後有望な産業は何かって? そんなこと官僚に聞かないでくださいよ(笑)。市場競争に勝ち残ったところがそうなるでしょう、としか。

「続・インド人がやった方が儲かることは、インド人にやらせればいいじゃん。」, bewaad institute@kasumigaseki

確かに、次の成長セクターがどこなのか、などということは、誰にも予想できないですよね。まあ、産業の成長に対して、政府ができることというのは、実際のところ、ほとんど何もないのでしょう。ただ、新たな産業が生まれて、それが成長する元といいますか、タネに政府が深く関わっているのも事実なんですよね。

例えば、現在一般に使われているコンピュータ。ノイマン型とか、プログラム内蔵方式とか呼ばれています。このコンピュータが、マンハッタン・プロジェクトの予算で開発されたというのは有名な話。原子爆弾を開発するのに、核分裂反応について大量の偏微分方程式を解く必要があり、この仕事をやらせるために、汎用計算機を開発するという、迂遠にして壮大な話でして。コンピュータが出来上がったときには、戦争はとっくに終わっていたし、原子爆弾はもちろんとうに完成していたという顛末です。

第二次世界大戦で生まれた技術が、戦後の成長産業の礎になったという説は、昔からあって、おそらく今でも有効なのだと思います。化学産業やエレクトロニクス産業、それにコンピュータ産業などが、例として挙がります。つまり、これらの産業の基礎になっている技術は、政府のカネで開発されたわけですよね。

インターネットも、もとは、冷戦下にアメリカの国防総省が開発した軍事ネットワークです。コンピュータ・ソフトウエアについても、アメリカ政府が、もっぱら軍事目的で莫大な投資をしてきたというのはあるでしょう。たしか、オペレーティング・システムも、冷戦下では、共産圏への輸出が規制されていたという話を聞いたことがあります。OSの技術開発にも、軍事予算が相当使われていたんじゃないですかね。

米ソの冷戦が終わって、NASAなどの軍事関係で働いていた技術者がリストラされて、ウォール街で雇用され、金融工学を駆使した金融商品が大量に開発されるようになった、という話もありましたか。

こう考えると、90年代以降のアメリカの成長産業というのは、冷戦下で政府が軍事目的に行なってきた膨大な投資が実を結んだといえるのではないでしょうか。

とはいえ、実際どの技術がどう役立つかなどということは、全く予想の外ではあります。いえるのは、アメリカが冷戦下に、アポロ計画だの、スターウォーズ計画だのと、壮大な計画を色々ぶち上げて、莫大なカネをばら撒いた、ということ。下手な鉄砲数打ちゃ当たるというのか、物量作戦というのか...

将来の産業について、何が有望か何が無駄かは誰にもわからないでしょうが。確実にいえるのは、何もしなければ何も生まれることはない、ということですかねえ。とにかく良さげなことを何でもいいからやってみる、というのもひとつのやり方だとは思います。

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2007年12月 6日 (木)

日本の相対的貧困率

週間東洋経済 2007/12/8号より。

本当は、Appleの特集『iはだからスゴイ!』がお目当てだったのですけど(巨大EMSの部分が面白かったです)。

第二特集の『覆い隠される貧困』というのが、なかなかショッキングな記事でした。その記事から、OECDの相対的貧困率のランキングを引用させてもらいます。

・・・

- OECD(経済協力開発機構)加盟国の貧困に関する統計 -

国名 相対的
貧困率
(全人口)
(%)
子ども
のいる
世帯の
貧困率
(%)
子ども
のいる
一人親
世帯の
貧困率
(%)
高齢者の
貧困率
(%)
メキシコ 2002 20.3 24.8 35.0 28.4
米国 2000 17.0 21.7 48.9 24.6
トルコ 2002 15.9 21.1 57.7 16.4
日本 2000 15.3 14.3 57.3 21.1
イタリア 2000 12.9 15.7 24.9 15.3
英国 2000 11.4 16.2 40.7 14.4
オーストラリア 1999 11.2 11.6 38.4 23.6
カナダ 2000 10.3 13.6 42.1 4.3
ドイツ 2001 9.8 12.8 31.4 8.5
フランス 2000 7.0 7.3 26.6 10.5
オランダ 2000 6.0 9.0 30.3 1.6
スウェーデン 2000 5.3 3.6 9.3 7.8
OECD平均   10.2 12.1 32.5 13.3

(注)相対的貧困とは、個々人の世帯所得が当該国の平均可処分所得の半分未満の場合を指す。子どもは18歳未満、高齢者は65歳以上を指す。

(出所)OECD SOCIAL INDICATORS 2005(邦訳は「図表でみる世界の社会問題」明石書店刊)

・・・

落ち着いて考えてみれば、日本が米国とドイツ・フランス等のヨーロッパ諸国の間にあるのは、妥当なところなのでしょう。政府の規模と相関している感じはありますからね。

しかし、ワーキング・プアをはじめ、こうした貧困問題というのは、東洋経済という雑誌の看板になりつつありますねえ。経済誌としては異色なのか、以前からこんな風だったのか、私にはわかりませんが。

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2007年12月 4日 (火)

”初音ミク”にみる技術の売り方

なんてことは、とっくに、どなたかが書いていらっしゃるのでしょうけど。

バーチャル・シンガー『初音ミク』は、声優「藤田 咲」さんが演じるポップでキュートなキャラクター・ボイスを元に作り上げられた、ボーカル・アンドロイド=VOCALOID(ボーカロイド)です。

『初音ミク』の歌声は、80年代から最新まで多彩なアイドル・ポップスを中心に、さまざまなポップ・ソング~バラード・ソングを歌い上げ、またキュートな声によるアニメソングなども得意としています。彼女の声質はとてもチャーミングで、伸びやかに天まで昇るような高音域、清楚で可憐な中高音域がとても魅力的。まるで可愛らしいアイドル歌手を、自宅スタジオでプロデュースしているかのような感覚を味わえるでしょう。

キャラクター・ボーカル・シリーズ01 初音ミク HATSUNE MIKU

現代的な技術の売り方だなあ、と思いまして。このソフト、”音声合成ソフトウエア”だとか、あるいは、”ボーカル・シンセサイザー”だとか、呼ぶものだと思うのですが。

VOCALOIDというのは、この技術をもつ、YAMAHAの製品名のようですけど、その説明は以下のような感じです。

VOCALOIDは、コンピュータ上で歌声のパートの旋律と歌詞を入力すれば、そのまま楽曲のヴォーカルパートを制作することができる歌声合成ソフトウェアです。実際の人の歌声から収録したデータベースである「歌声ライブラリ」を用いて合成を行うため、元の歌声の性質が残り、リアルな歌声の合成音を得ることができます。また、簡単な操作で歌声に必要な表情付け(ビブラート、ピッチベンド)を行うことも可能です。このためVOCALOID では、この歌声ライブラリを充実させることによりさまざまな声質を使った楽曲の制作が可能になります。対応言語は日本語と英語です。対応 OS は、Windows2000/XP です。

YAMAHA VOCALOIDについて

まあ、よくある”機能の説明”ですよね。これだけですと、具体的にこの技術で何ができる、というイメージが沸きにくいのではないかと思います。そこで、キャラクター設定を行なうことで、ユーザに使い方を具体的にイメージさせるあたりが、この製品の”おもてなし”(user experience)なのかなあ、と思いました。

また、今回はきちんとキャラクター設定を行いました。なぜかというと、自由は不自由だと考えているからです。

 人間というのはある程度の制限を設けてあげないと、そこで何をしたらいいのか分からないと思うんです。例えば、砂漠に置き去りにされて「好きなところに行っていいよ」と言われるようなイメージです。目印がなければ、どこに行ったらいいか分からないですよね。

創業社長が明かす、仮想歌手「初音ミク」にかける想い:インタビュー - CNET Japan

AppleのiPod・iPhone、任天堂のWii、あるいはGoogleなどに通じるものがある感じがします。単機能にフォーカスするところ、具体的な使い方をイメージさせる売り方、といったあたり。これからは、技術の売り方というのは、こういう方向なのかなあ、などと色々考えてしまいました。

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2007年12月 1日 (土)

混合診療の論理

”混合診療”の意味するところは、保険診療と保険外診療を併用して受けた際、保険診療の部分について、保険給付(患者・医療機関からみると請求)するもの、とします。混合診療に相当する診療を、全額自己負担で受けることは、当然現在でも認められているものと思います。

現在の制度は、混合診療は原則禁止で、例外がいくつか認められている、という状態のようです。”混合診療は一つのルールを作って、そして一定の範囲内で認めていく”というのが政府・厚生労働省の見解。

保険診療と保険外診療の取扱い

高度先進医療

医療技術の進歩に迅速に対応するため、保険導入されていない新しい高度な医療技術のうち、一定の安全性や有効性等が認められたものについて、基礎的な部分を特定療養費として保険給付する制度

選定療養

患者の選択に委ねることが適当なサービスについて、患者が自ら選択して費用を負担することにより、追加的なサービスの提供を認める制度

『いわゆる「混合診療」解禁問題について』, 第11回社会保障審議会医療保険部会配付資料, H16.11.30

規制改革会議が主張する、混合診療の解禁というのは、”全面解禁”とのことです。

規制改革・民間開放推進会議の主張
(平成16年8月3日「中間とりまとめ」)

いわゆる「混合診療」(保険診療と保険外診療の併用)の解禁

適切な情報に基づいて、患者自らが選択する場合には、「患者本位の医療」を実現する観点から、通常の保険内診療分の保険による費用負担を認める、いわゆる「混合診療」を全面解禁すべきである。

同上

結局のところ、昨今の混合診療を巡る論争というのは、政府が、保険給付の範囲を規制すべきか否か、という点であるように思います。私は、政府による一定のコントロールがあるのが望ましい、と考えます。

理由は、まあ、ただで手に入るものはない、という、単純な庶民感覚によるのですけど、以下のとおり。

  1. 混合診療を全面解禁したからといって、金がどこかから沸いてくるわけではない。保険財政の規模は、現状のまま。
  2. 混合診療全面解禁によって、現状より保険給付を増やせば、保険財政にはマイナスとして働く。
  3. マイナスとなった分は、当然帳尻を合わせる必要があるから、この分は現状の保険診療の範囲を縮小して合わせることになるであろう。

つまり、ゼロサムゲームなんですよね。少なくとも、マーケティングの巧拙によって、このゲームの”勝者”が決まるような事態はあまり望ましくないと思います。

やはり、今の制度で、必要であるなら保険給付を行なうようにしていくのが、望ましいでしょう。ある部分について、保険給付を増やすなら、それは、保険財政の収入を増やす(つまり国民負担増)か、あるいは、トレードオフしかないでしょう。

参考:
元検弁護士のつぶやき: 「混合診療」禁止は違法(東京地裁判決)

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2007年11月30日 (金)

アメリカの教育と医療

教育と医療というのは、先進国では最大の関心事となっているように思えます。日経新聞の連載記事『3億人のアメリカ 第3部 膨らむ夢の果て』で、昨日・今日と両者がとりあげられていました。先進国のなかの先進国、アメリカの例は示唆に富むかと思います。

 裕福な家庭に生まれなくても高い教育を受けるチャンスがある - 。こんなアメリカの理念を支えるのが、学生の三分の二が学費支払いに利用する教育ローン。しかし世界で最も整備されていたはずの仕組みが今、除々に劣化している。学費高騰で学生の負担が増しているためだ。

 非営利団体カレッジ・ボードによると、二〇〇七年度の四年制大学の学費は公立大の平均で年間一万三千ドル、私立は同三万二千ドル。物価上昇分を除くと二十年前の一・五倍。卒業生のローン残高は平均一万九千二百ドル。物価調整後の比較で十年前より五八%増えた。

『学費高騰「教育」にリスク』, 日本経済新聞, 2007年11月29日, 朝刊7面

 医療費高騰で保険料が上昇し、保険提供をやめる企業や保険購入をあきらめる人が増加。米企業の二〇〇八年の従業員一人あたりの医療費負担は〇三年に比べ五割近くも重い約九千三百ドルとなる。医療問題を研究している非営利団体、米カイザー・ファミリー財団の調査では、医療保険を提供しない民間企業の比率は〇〇年の三割から〇七年は四割に上昇しており、今後、さらに増える可能性がある。現在、全米の無保険者は四千七百万人に達している。

【略】

 ここ数年で増え始めた免責条項付き保険は、社員のコスト意識向上を促し、医療コスト圧縮につなげるのが狙い。カイザー・ファミリー財団のまとめでは、社員一世帯当たり月額二千ドル以上の免責条項を付けた保険の導入を検討しているケースは民間企業全体の約二割に上る。こうした条項が導入されれば、月額二千ドル未満の医療費はすべて個人で払わなくてはならなくなる。

『医療保険には頼れない』, 日本経済新聞, 2007年11月30日, 朝刊7面

教育も医療も、市場原理にはなじまないとされている分野と思いますが、まあ、そのとおりであることが、現実に証明されつつある、という感じですね。

教育・医療の費用が高騰するのは、社会が豊かになったことによるのでしょう。市場原理によれば、高騰が加速される面はあるのでしょうけど。常にコストを押し上げる社会的な力が働いている以上、政府が手がけても、費用が増え続ける点は変わりがないわけでして。政府が価格をコントロールできるだけ、いくらかまし、というところでしょう。

日本では、政府が価格を低く抑えているために、コスト上昇の圧力が需要サイドではなく、もっぱら供給サイドに働いていて、教育現場・医療現場の荒廃が進んでいるようです。市場化すれば、需要サイドにコスト上昇圧力を転嫁することが可能なのでしょうけども。。。

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2007年11月27日 (火)

政府には無駄があるというけども。。。

 政府への幻滅の原因は何か。われわれが求めたのは奇跡だった。奇跡を求めれば得られるものは幻滅である。たとえ無意識ではあっても、われわれは政府が無料でサービスしてくれると信じた。そのための費用は誰かが負担してくれると思った。

P.F.ドラッカー,  『断絶の時代』,  p.219

Aが無駄だからこれを削って、余った予算をBへ、というような話はあまりスジのよくない話でしょうね。Bに予算が必要なら、Bのための負担を全員に求めるべきでしょう。Aが無駄だというのなら、Aを廃止して、全員の負担を軽減すればよいだけのことでしょう。

 これらのものの費用はすべて税金である。だからこそやっていけている。しかし当然そう理解していなければならないにもかかわらず、この半世紀というもの、政府なら費用を捻出し、無料でやってくれるという神話が広がっていた。

同書,  p.220

"無駄をなくす”、”効率化”などというのは、一種の錬金術じゃないですかねえ。政府に無駄がない、なんてことはなくて、もちろん、どこかしらにはあるのでしょうけど。ただ、それを利用して金を生み出すことはできないし、期待すべきでもないと思います。

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2007年11月24日 (土)

P.F.ドラッカー『断絶の時代』

ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)Bookドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)

著者:ピーター・F・ドラッカー
販売元:ダイヤモンド社
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・・・

1969年の著作だそうですが、今日の状況にも、驚くほど当てはまりますね。例えば、”今どきの”若者が3年で仕事をやめる理由として、以下の記述は本質を突いていると感じます。

 今日、この自らを独立した専門職業とする自負と、格や所得ははるかに上回るもののある意味では昨日の熟練労働者の後継者にすぎないという現実の間に葛藤が生じている。この葛藤が教育を受けた若者たちの幻滅の底にある。彼らが、企業、政府、軍、大学のばからしさを口にするのも、このためである。

 彼らは知識人たろうとする。だが実際にはスタッフにすぎない。しかもあらゆる組織がそのようなものであるからには逃げ道もない。企業に背を向け大学に残っても、そこもまた組織にすぎないことを知る。大学から出て政府機関に入っても同じ状況にある。

 彼らのほとんどが、問題は、退屈な仕事と自由との選択ではないことを知らない。彼らの前にある選択は、所得と機会を約束する仕事と、食べていくための畑での一日十六時間の耕作や草むしりである。しかしこれを彼らに理解させることは無理かもしれない。彼らの全員が、自分だけは本当の専門家としての仕事につく資格があるというに違いない。

p285-286

 少なくともごく最近までは、仕事に要求される能力そのものは、さほど大きく変わっていない。女性店員の仕事には、三〇年前は中卒で十分だったものが、今日では高卒あるいは短大卒が必要になった。しかしそのことには仕事上の特別な理由があるわけではない。今日の一八歳あるいは二〇歳の女性店員が、一九三五年頃の一五歳よりも、あるいは一九一〇年の一二歳よりも多くを売っているわけではない。

 一九二九年当時アメリカでは、大量生産工場の職長は中卒で働き出した人たちだった。一〇年後の第二次世界大戦直前には高卒になった。今日では大卒が普通になっている。ところが仕事そのものは、本質的には四〇年前とほとんど変わっていない。変わったとすれば、仕事が定式化されたり、人事、品質管理、生産管理の専門家に奪われたりした結果、職長の仕事が易しくなったことぐらいである。

【中略】

したがって仕事の高度化とされているものの直接の原因は、学校教育の延長にすぎない。学校教育が長くなれば就職時の学歴が上がってくるだけのことである。

p287-288

学校教育が延長され、また、多様化してきたのは、実社会での仕事に必要だから、というわけではなく、それ自体が社会のニーズによってもたらされたものである、というのはそのとおりであろう、と思います。このニーズは、平均寿命が伸びたことによって、社会が豊かになったことによって、働き始めるのを遅らせるようになったことにより生じている、ということです。つまり、何もせずに遊ばせているよりは、教育を受けさせたほうがマシ、という程度のものであったのでしょう。

実際のところ、学校教育と仕事というのは、直に結びつくものではなく、それぞれが別のもので、別々の論理で存在しているのだと思います。ただ、これは長年学校教育を受けてきたものが、仕事に就こうとするとき、ある種のショックをあたえるものであるのでしょう。実社会の側としては、こうした高学歴の人々、いまでは普通の人々なわけですが、そうした人々にも居場所をつくり、比較的高待遇で受け入れてきたわけですが、仕事そのものが急に大きく変わったわけでないでしょうから、ギャップというのは常に存在してきたと思います。

今はこうしたギャップが拡大しすぎているのかもしれませんね。

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2007年11月 3日 (土)

『方丈記私記』

Book方丈記私記 (ちくま文庫)

著者:堀田 善衛
販売元:筑摩書房
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・・・

私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

戦時中、東京大空襲のさなかにあって、「方丈記」を暗誦できるほどに読み返したという著者の、自己の体験と、「方丈記」のなかの記述との、共感によって書かれた「私記」です。

世の乱るゝ瑞相とか聞けるもしく、

「方丈記」福原遷都をめぐる記述のなかの上の文について、”瑞相”という、”吉兆”、よいことを意味する言葉が使われているのをみて、著者は、東京大空襲の後の、焼け跡にたったときに感じたものを思い起こします。

この分では日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という、無気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感であった。

古い制度が何もかも失われ、新しく、そして暗に今よりもより良くなるという意を含む、制度ができる、という期待を、空襲の惨事のなかにあって感じたとか。

古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

また、”古き日本”は既に崩壊の道を歩んでいるなかにあって、「明日の、新たなる日本というものについての映像がどうしても、うまく目に見えて来ない...」。歴史の狭間にある人間の、”ある不安の感”を、”浮雲の思ひ”に見出します。

しかし、著者は上のような”期待”を裏切られる出来事に遭遇します。

人民の側において、かくまでの災殃をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この、といまのことばを援用していえば、体制は維持されるであろう、と私にしても、何程かはヤケクソに考えざるを得ないのであった。

日本の伝統的な思想の蓄積としての、”無常観”、”もののあはれ”、といった、”運命”(とみなしたもの)に対するある種の諦念が、政治的権力の前にあって、いかに都合のよいものであるか、これを著者にして、「日本」の業の深さ、としているように思いました。

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2007年10月19日 (金)

トリクルダウン理論 - 歴史は繰り返すか

昨日のエントリ「格差の大きい国ほど成長率も高い?」 について。

”誰も「格差が大きければ大きいほど成長率が高い」などとは主張していない”との指摘をいただき、格差の大きい国ほど成長率も高い、というのは、元の記事の主張を少々拡大解釈しすぎたかな、と反省をいたしました。

経済成長によって、みんなが豊かになるならば、格差など問題にならない、という主張ととらえるべきでしたかね。まあ、今の日本では、その(高い)経済成長率をどうやって達成するかが大問題ではあるのでしょうけども。

さて、”トリクルダウン理論”なるものがあるそうです。

ヴィクトリア女王統治の19世紀後半。イギリスでは、繁栄する経済が、そのまま永遠につづくと信じられていた。そして多くの者は、成長を牽引する富者たちが一層富めば、その富のしずくが残りの層にもしたたり落ちるために、それでよいではないかという楽観的な考えを共有していた。これと同じ考え方は、後に1980年代のレーガノミックス、特にレーガノミックスにおける税制改革の思想的基盤となり、トリクルダウン理論(trickle-down theory)と名付けられるようになる。この理論が、レーガノミックスと関係があることから推測されるように、トリクルダウン理論は、サプライサイド経済学や新古典派経済学、さらに小さな政府論と強い親和性を持つ。

話を19世紀末イギリスに戻そう。今で言えばトリクルダウン理論に支配されていた楽観ムードの修正を迫った事実が起こった。(ロンドンで造船業を営んで一代で財を築いた)チャールズ・ブーズ(Booth イギリス式発音)、(ヨークでココア製造業2代目を継いでいた)シーボーム・ラウントリーによる<貧困の発見>である。ヘンリー・ハインドマンを領袖とする社会主義運動家たちが、ロンドン大衆の4分の1が深刻な窮乏に陥っていると告発したことに憤りを覚えたブーズは、一面識もなかったハインドマンを訪れ、論争のすえ、彼らの方法の不適切と事実の誇張を私費を投じて論証すると言明して、以後17年にわたるロンドン・サーヴェイに着手する。結果は、ハインドマンたちの訴え以上の惨状を発見することになる。

権丈 善一 著, 「医療年金問題の考え方 - 再分配政策の政治経済学Ⅲ -」, 慶応義塾大学出版会, 2006, p.16

私費を投じて大規模なサーヴェイを実施する、というのは、いかにも実証を重んじるイギリス人らしいエピソードであると思います。この後、イギリスはより所得再分配政策を強め、福祉国家へと進んでいったわけですが。

...そして日本では、バブル崩壊後の税制改革 - 所得税、住民税、相続税、贈与税の最高税率引き下げ - をはじめとして、トリクルダウン理論が勢いをもちはじめて久しい。そのなかで、下層の生活実態や排除(exclusion)、そして格差拡大、階層の固定化を論じる現代のブーズやラウントリーたちが次々と現れ、トリクルダウン理論に沿う政策のみでは政権が不安定化する - すなわち、選挙に勝てない - 雰囲気が生まれようとしている。

同書, p.18

先の参議院選挙の結果からすると、非常に示唆的な記述であると思います。

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2007年10月18日 (木)

格差の大きい国ほど成長率も高い?

格差をなくすとみんな平等に貧乏になる

こういう話って、私にとっても完全にgiven(大前提)の話で、あえて説明するまでもなく、その大前提の上でどう制度を作っていくかという話だと思うのですが、世の中にはこれが大前提ではない人も多いように思えます

栗原潔のテクノロジー時評Ver2 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]

各国別にみると、日本は格差もフランスに次いで小さいが、成長率もブラジルに次いで低い。全体として、格差の大きい国ほど成長率も高い。ありもしない「格差社会」を嘆くより、主要先進国で最低に転落した成長率を上げることが日本の最優先の課題である。

池田信夫 blog ITとグローバル化は格差も所得も拡大する 

所得格差が経済成長をもたらすという仮説は、まったく初耳です。

経済成長は所得格差を縮小する方向に作用する、というのが、日本の高度成長期や、アメリカの”黄金の60年代”における経験則であったと思いますが。であればこそ、バブル崩壊後、深刻な不況に陥った日本はともかく、アメリカの80年代以降の好況が、”雇用なき回復”などと呼ばれ、特異なこととして、所得格差の拡大が話題として取り上げられたのではないか、と思いますけども。

それはともかく。

池田信夫氏のブログで取り上げられているIMFのレポートですけど、概要と結論だけの流し読みではありますが、その内容はというと。

1) 技術の進歩は、貿易よりも不平等を拡大させる要因である。

2) 貿易のグローバル化は、不平等を減少させている。金融のグローバル化 - 特に外国直接投資 - は不平等を増加させている。

3) 教育・金融への人々のアクセス改善は、グローバル化の恩恵をより平等に配分するのに資する。

途上国向けの提言(エクスキューズ?)のように思えますね。

このIMFのレポートに対し、Richard Posner 氏 - ”Senior Lecturer in Law”とのことで、法律がご専門の方のようです - が、以下のように”疑問に思う”と述べているようですが。。。

I want to question three assumptions of the IMF report. The first is that increased income inequality is a bad thing, the second is that an increase in world average incomes is a good thing, and the third is that greater investments in education are bound to reduce inequality.

The Becker-Posner Blog: Globalization and Inequality--Posner's Comment

ニュアンスが随分と違いやしませんかね?

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2007年10月17日 (水)

財政窮状と”無駄遣い”

財政の窮状は国民は十分に承知していて、それにもかかわらず、相変わらず官僚や役人による無駄遣いが止まない、政治が無駄遣いを止めさせるリーダーシップがないところに国民の怒りがあるのであって、財務省が広報強化に乗り出し、「広報企画調整官」ポストに、17人の応募者の中から電通出身の人を起用したというのは、ご本人がいかに有能な方であっても、的はずれも良いところじゃないでしょうか。

大西 宏のマーケティング・エッセンス:財政の窮状を訴えるために広報強化とは的が外れていない? - livedoor Blog(ブログ)

個人的には”無駄遣い”というのは、あまり本質的ではないなあ、と思います。むろん、過去・現在において、”無駄遣い”があった/あるのは、確かでしょうけど。一般会計に関しては、全体を揺るがすほどの”無駄遣い”がなされているようには見えませんしね。具体的にどこが”無駄遣い”という指摘もあまり聞きません(特別会計では指摘されることはありますね。グリーンピアとか)。

結局、”無駄遣い”というのも価値判断になりますから、ある程度はどうしょうもない面もあるでしょう。つまり、人によって、”無駄遣い”の定義がまちまちなため、特定の人にとっては、”無駄遣い”でも、別の人にとっては必要というのは当然あるでしょうし。例えば、高所得者にとっては、社会保障なんて”無駄遣い”かもしれませんけど、低所得者にとっては、必要であるがごとく。

それよりも、政策が小手先の対策・選挙向けの打ち上げ花火に終始していて、グランドデザインがまったく提示されないことや、税収の根本的な問題を棚上げしているところに問題があるような気がします。

政策面では、現在の日本の歳入構造からすると、アメリカ・イギリスに近い、”小さな政府”へと向かわざるを得ないわけで、政府はまさにその方向へ邁進すべく、社会保障・福祉を削減し続けているわけですが、これは、国民的議論の結果、というわけではないと思います。高度成長が終焉して、低成長期に入った1970年代より、負担と給付はまったく釣り合っておらず、公債依存を強める結果となったわけですが、それも限界に到達した結果ですよね。結局、負担を増やすのか、給付を減らすのか、議論されないままで来てしまった感があります。

また、税収も問題としては、所得の補足率の問題があって、これもまったく論議はなされていない感じです。

勤労者が手にする所得の内、課税の対象となるのは必要経費を除いた残額である。本来課税対象とされるべき所得の内、税務署がどの程度の割合を把握しているかを示す数値を捕捉率と呼ぶ。この捕捉率は業種によって異なり、給与所得者は約9割、自営業者は約6割、農業、林業、水産業従事者は約4割であると言われる。このことを指して「クロヨン」と称する。

"クロヨン," Wikipedia, (accessed 10月 16, 2007).

消費税増税は、国民のより強い反発が予想される、所得税増税を回避して、少しでも取りやすいところからとる、という感が強いです。結局、これも目先のことだけしか考えていないなあ、と思うわけでして。税収が不足して財政窮状に陥った、そんなことは、30年も昔からわかっていたことであるはずなのですけどね。

もちろん、財政窮状の広報などといううのは、もっと小手先・近視眼的であるとは思います。

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2007年10月16日 (火)

「詭弁論理学」

詭弁論理学 (中公新書 (448))Book詭弁論理学 (中公新書 (448))

著者:野崎 昭弘
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

私がもっているのは、2005年52版(1976年初版)。ロングセラーの本のようです。内容は、詭弁のコレクションといったものではなく、詭弁を糸口にした論理学入門といった感の本ですね。特に後半部分がそんな感じになっています。

とはいえ、前半部分には、詭弁・強弁の分類がなされ、著者の経験した詭弁・強弁の例、古今東西の逸話からとった例などがあげられています。それがまあ、30年も前の話とは思えず、現代の話としても通用しそうなあたり、人間というのはあまり変わらないものだの感を強くします。

二分法とは

人々や考え方などを、ある原理的な基準でふたつに分けてしまう考え方を、二分法という。テレビっ子ならすべての人間を「ワルモノ」と「イイモノ(善人)」に分けるであろう(イギリスの子供は、昔の王さまの話がでるとすぐ、「それ、いい王様? 悪い王様?ときくという)。

同書, p.32

大人でも、短絡的に良し悪しを他人に聞こうとする人はいますね。

個人的に気に入った逸話は、以下のものです。「論点のすりかえ」の例として。

クールリッジは、学校側の証人ミセス・ケネディに、退学させられた少女のどこが悪かったのかとつめよった。するとケネディ夫人は、少女が「いちごを食べた」という例を挙げた。

クールリッジ「へえ、いちごを食べたのですか。どうしてそれが悪いのですか」

ケネディ夫人「禁じられておりました」

「しかし、いちごを食べるとどんな厄介なことが起こるのですか」

「どうか、りんごを食べるとどんな厄介なことが起こるか、きいて下さいませ。ご存知の通り厄介なことが起こっています」

同書, p.76

後半は論理パズルが取り上げられています。長いですが、一番印象に残ったものをひとつ、引用してみます。

仲の悪い四十人の貴族が、それぞれひとりづつの従者と暮らしていた。ところがこの従者どもが悪い奴で、主人に隠れてこそこそ悪いことをやっていた。どの貴族も、他の貴族の従者どもが悪者であることは知っていたが、お互いに仲が悪いので、それを教えてやろうとしなかった。ところが、自分の従者が悪事を働いているかどうかは、誰も知らなかった - 従者たちはずる賢くて、自分の主人にだけはバレないように、工夫していたのである。

この様子を見かねた王様は、ある日、この貴族たちを全員呼びあつめてこういった。

「諸君は、他人の従者のことはよく知っているのに、自分の従者のことを少しもわかっておらぬな。よいか、諸君の従者のうち、少なくともひとりは悪者じゃ。主人たるものは、自分の従者が悪者とわかったら、即刻その首をはねよ。この始末を誤ったものは、自分の首を失うことになろうぞよ」

貴族たちは青くなって、王様に猶予を乞うた。そしてこの日を第一日として、第四十日めまで考えることを許された。

さて、それぞれの家に帰った貴族たちは、次のように考えた。

「王様は嘘をつかない。実際、よその従者は性悪ばかりなのに、肝心のおのれの従者が悪者かどうか、おれにはさっぱりわからんからなあ。王様の話だと、他の奴らもおれと同様らしい。ということは、他のやつらにきけば、おれの従者のことはわかるはずだが、といって、きくくらいなら死んだほうがましだ。さて、どうしたものかなあ」

ところでこの国はたいへん文化程度が高いので、『中央新聞』という日刊新聞が刊行されていた(朝刊だけで、夕刊も号外もない)。土地のニュースは、猫のお産から馬の葬式までのっていた。貴族の家には毎朝無料で配達されるので、他の貴族がどうしたかと目を皿のようにして読むのだが、いたって平穏無事で、誰それが従者の首をはねたというような話はちっとものらない。従者たちは身の危険を感じていたっておとなしく、乗合馬車の中でも、足をなげだしたりしないで、荷物をきちんとひざの上におく、というほどであった。

こうして平穏無事な三十九日が過ぎた。第四十日めの朝の新聞にも特に変わったことはなく、ありふれた婚約記事や広告などで埋まっていた。 - 新聞を呼び終えた貴族は、静かに立ち上がり、従者を呼んで、首をはねた。こうして四十人の従者の首が、いっせいに飛んだ。

自分の従者が悪者だとわかったのは、なぜか?

同書, p.143

私がなぜこの問題を特に印象に残したか。

Joel Spolsky 氏によりますと。

私のささやかな経験から言わせてもらうと、伝統的に大学のコンピュータサイエンスのカリキュラムで教えられているもので、多くの人がうまく理解できないものが2つあった: ポインタと再帰だ。

Javaスクールの危険 - Joel on Software

中間試験の時になって、私は自分で思っているほど頭が良くないことに気付いた。私はいくつかの問題が全然できなかった。私はまだポインタを理解しておらず、再帰も理解していなかったためだ。

試してみよう - Joel on Software

この問題が、まさに再帰を使った問題だと思うからなのです(この問題を解くための推論方法には、もっと立派な名前がついていて、それは高校数学で皆が習うものではあるのですけど)。

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2007年10月15日 (月)

世の中には11種類の人間がいる。

世の中には11種類の人間がいる。

1+1=3と言われて、

笑う人と、解説されて「あぁ、そういうことね」と言う人と、最後まで理解できない人である。

Geekなぺーじ : 言葉遊び

”11種類”は「じゅういち/しゅるい」ではなく、「いちいち/しゅるい」ですから、口述ですと、問題が成り立たなくなりますね。

1+1=3 の部分は、どうなんでしょ?
プラス記号を、かなり恣意的に解釈することになるような気がします。
11=3 の方が良いかもしれませんね。

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2007年10月 7日 (日)

応益負担と応能負担

国民は租税を強制的に負担させられているわけですが、その負担の根拠として、租税利益説と租税義務説なるものがあるようです。

租税利益説:国民は政府の提供するサービスの対価として税を払う
租税義務説:国民は国家に属するがゆえに義務として税を払う

ここから、負担のありかたとして、応益負担と応能負担という考え方が出てきます。

応益負担:政府サービスの利益に応じて税を負担
応能負担:納税者の支払い能力に応じて税を負担

もともと、近代国家が誕生した当初は、夜警国家(自由主義国家)思想が支配的で、政府が国民生活に介入するのは、最低限であるべき - 極端には軍事と警察に限定すべき、としていたことから、応益負担の考えが主流であったようです。

その後、二度の大戦を得て、政府の役割は飛躍的に増大し、様々な社会保険制度、社会保障制度が創設され、福祉国家の思想が支配的となります。社会保障というのは、所得の再分配に他なりませんから、ここで応益負担の考えは捨てられ、応能負担の考えが主流となります。

所得再分配というのは、以下のように、高所得層から低所得層へ所得を分配するわけですから、当然のことながら、富裕層ほど”損”になり、受益と負担では説明できない概念かと思います。

低所得層:受益 > 負担
高所得層:受益 < 負担

しかるに、1980年代頃から、財政赤字の増大を背景に、新自由主義の思想が政府内において見られるようになり、再び”受益者負担”が唱えられるようになっています。

実際に、所得税の累進税率が減税され、消費税を増税することで、負担は所得にかかわらず定率、さらには定額へと向かっているようです。一般消費税は主として日用品を対象としますが、日用品の購入額は所得にはあまり関係しないため、税としては所得にかかわらず定額となる傾向があります(消費税の逆進性)。

租税義務説というのは、”国民の義務”だとか、”相互扶助”だとかの、もっぱら、道徳面を強調することになって、いまいち歯切れの悪い、説得力に欠ける面があるのは否定できないですね。租税利益説の方が、利害関係をもとにする分、昨今では説得力を持ちそうです。

しかし、利益説では、国民の受けるサービスが一律である以上、税は所得に関わらず定額とするのが整合性があり、所得再分配を否定することになります。また、税が定額ですと、低所得層が負担できる限度で、税収が決まってしまい、それこそ、政府サービスは、”夜警国家”程度でしか行なえなくなるでしょうね。

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2007年9月21日 (金)

日本の税制

財政学 (有斐閣ブックス)Book財政学 (有斐閣ブックス)

著者:金澤 史男
販売元:有斐閣
Amazon.co.jpで詳細を確認する

通勤の際、電車の中で読んでいるのですが、なかなか面白いといいますか、考えさせられるといいますか。つい読みふけって、電車を乗り越してしまったり。。。

今日、日本の税制の箇所を読み終わったのですが、まず、興味深いのが、以下の国民負担率の内訳の国際比較です(画像をクリックすると拡大)。

Graph20070921









報道等で、日本の消費税率は諸外国に比べて低い、という話が出てきます。租税負担の国民所得比でみますと、確かにイギリス・ドイツ・フランスに比べると低いのですが、アメリカよりは高いのですねえ。

また、法人税についても似た主張がなされますが。

... 法人税減税を主張する企業側の言い分は、日本の法人所得課税の負担が国際的にみて高い水準だという点である。法人税に法人住民税、事業税を加えた実効税率は、1997年49.98%で、2004年以降39.54%となり、この間だけで10ポイントも減少している。2003年時点で主要国を見ると、アメリカ 40.75%、ドイツ 39.69%、フランス 34.33%、イギリス 30.00% となっている。すでに日本の法人所得課税は、国際的に高いとはいえない水準にある。

同書, p.124

しかも、企業負担としては、社会保障負担の事業主拠出分を考慮する必要がある。98年の数値だが、事業主拠出の対GDP比をみると、日本 5.6% に対して、イギリス 7.9%、ドイツ 11.3%、フランス 14.2% となっている。これを含めた場合、日本の実質的な企業負担の水準は、国際的に見てかなり低いと考えられる。

同書, p.124

社会保障負担の事業主拠出にアメリカが出てこないのは、皆年金・皆保険がないためですかね。しかし、漏れ聞こえるところでは、アメリカの企業が従業員の年金や医療保険を全く負担してないわけではなく、民間の高額な保険料の一部/全額を負担しているようですから、主要国中でもかなり重い負担になっていそうに思います。

しかし、一番目立つのは、所得課税の低さでしょう。

日本の場合、こうした所得税・住民税など個人所得課税の改革が、消費税の導入とセットになって実施された点に特徴がある。レベニュー・ニュートラル(増減税同額)が税制改革の枠組みとされ、所得税などの直接税の減税を消費税の増税が埋めるかたちとなった。 ...
... この税制改革では、給与所得者の場合、年収約700~800万円層を境として、それ以上の所得層は減税、それ以下の大多数の国民は増税という結果になった。

同書, p.123

累進性をもつ所得税を「フラット化」(定率化)の方向で減税して、逆進性をもつ消費税を増税する、という昨今の税制の流れは、高所得者層の負担を減らして低所得者層の負担を増やすことになりますね。

... それにしても金融機関優遇や富裕層優遇の程度は異常としか言いようがない。それでも、国民がこれを受容してきたのは、バブル崩壊後の金融不安のなかで、金融システムを安定化させ、金融ビッグバンへの対応と景気回復を図る緊要性を認めたからであろう。 ... かりに、こうした特殊事情からする変態的税制をそのまま維持しようとするならば、不公平税制の恒久化と呼ばれても仕方ないであろう。

同書, p131

高所得者層の租税負担を減らすのは、自ずと「小さな政府」を指向することになるかと思います。税負担を所得にかかわらずフラットにしようとすれば、低所得者層の負担限度が、税負担の限度となりますので、政府は最低限の収入しか得られないでしょうから。

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2007年9月17日 (月)

「消費税目的税化は社会保障費抑制につながる」

中央公論10月号に掲載されている記事です。

...
 しかしながら、一見したところ分かりやすい社会保障目的税化という仕組みは、国民の消費税率引き上げに対する抵抗感を和らげるためだけの表面的な理屈に過ぎず、実質的にはまったく何の意味もないという可能性が高い。
 さらに、制度設計の仕方によっては、社会保障費を財政面から一方的に抑えつけることとなり、社会保障のあり方が根底から揺らいでくることにもなりかねない。

村上正泰, 「消費税目的税化は社会保障費抑制につながる」, 中央公論10月号, 中央公論社, 2007, p.61

 社会保障目的税という名目で増税したとしても、もちろん増税分を社会保障のために使ったと見なすことはできるが、その一方で、それまで社会保障費に充てていた消費税以外の財源を社会保障以外の目的のために使うことも可能となり、実質的には増税が社会保障以外の目的に振り向けられたとさえみなし得ることになるのである。

同, p.61

消費税増税は、国の一般会計の歳入を増やすわけですから、「まったく何の意味もない」とまではいえないとは思います。一般会計から支出されている社会保障関係費にも、いくらかは影響を与えるのではないでしょうかね。

”社会保障目的税”が単なる看板にすぎないのは、そのとおりなのでしょう。社会保障費を増やすとは、政府はひとことも述べていないでしょうし。おそらく、消費税増税は、国の財政健全化が主たる目的なのでしょうが。

それでは、仮に社会保障費を、一般会計と別立てにして、消費税収をその財源としたとするとどうなるか、ですが。

...
このように、とりわけ医療や介護を中心として社会保障費を経済成長に合わせてコントロールすることは物理的に不可能であるが、もし消費税をその財源として目的税化してしまうと、社会保障費は消費税収の伸びに左右されることになる。
 しかしながら、消費税収の伸びは、税率を一定とすれば、おおむね経済成長に左右されると仮定することができよう。そうすると、結局、消費税の社会保障目的税化とは、不可能を可能にしなければならない無理な仕組みということになる。

同, p.63

社会保障費と景気動向が密にリンクするようになるのでしょう。どんな税であれ、「おおむね経済成長に左右される」のであろうとは思いますけど、消費税というのは、景気動向に、よりセンシティブに左右されるように思います。

このため、政府がより社会保障費を抑制する方向へと動く、というのは、ありそうです。

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公正とは何か

 ある時、夕食の席で一緒になった女性が、金持ちの払う税金が少なすぎるのは不公正だと熱心に弁じたてた。彼女がどんな意味で「公正」という言葉を使っているかわからなかったので、こんなふうに訊ねてみた。ジャックとジルが共同の水道を同じ量だけ使っているとしよう。ジャックの所得は1万ドルで税率10パーセント、つまり水道の維持費として1000ドルを支払っている。ジルの方は所得が10万ドルで税率は5パーセント、水道の維持費として5000ドルを支払っている。では、この税制はどちらにとって不公正なのだろうか?

 彼女は、今までそんなことを考えたことがないから、どう考えていいかわからない、と率直に言った。私は彼女とは違って、これまでさんざん「そんなことを考え」てきたのだが、今もってどう答えたらよいのか確信を持てない。

スティーブン・ランズバーグ著, 佐和隆光監訳, 吉田利子訳, 「ランチタイムの経済学」, 日本経済新聞社, 2004, p.86

”健康で文化的な最低限度の生活”を営むには、どれだけの可処分所得(手取り収入)の額が必要か、という価値判断で考えてみます。

例えば国民負担が定率で50%とします。

年収300万円の人 : 負担150万円, 手取り150万円
年収1000万円の人: 負担500万円, 手取り500万円

さて、手取り150万円(月額12.5万円)で、”健康で文化的な最低限度の生活”を営むことは可能でしょうか?

さらに国民負担が定率で70%とします。

年収300万円の人 : 負担210万円, 手取り90万円
年収1000万円の人: 負担700万円, 手取り300万円

手取り90万円(月額7.5万円)までいくと、さすがに無理ですかね?

とりあえずは、手取り150万円を、”健康で文化的な最低限度の生活”を営むのに、必要な額とします。しかし、公共サービスを維持するためには、上の二人で国民負担910万円がどうしても必要であるとします。

そうすると、年収300万円の人は50%以上の負担はできないわけですから、年収1000万円の人に負担していただく他ありません。

年収300万円の人 : 負担150万円, 手取り150万円
年収1000万円の人: 負担760万円, 手取り240万円

年収300万円の人の税率は50%、年収1000万円の人の税率は76%となってしまいましたね。

極端な例ではありますが。定率の税より累進税率の方が国民負担率を引き上げやすい、ということは言えるのではないでしょうか。

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2007年9月15日 (土)

勧善懲悪劇による現実のモデリング

人は、現実の出来事をそのままの形で理解することはできず、なんらかのモデルによって理解しようとします。一般的によく使われるのは、”物語”の形式で、これは、出来事を原因結果の因果律に従って単純化して並べたものとなります。

...
 しかしながら、格闘をしている善良な奴と邪悪な奴がいると想像してごらんなさい。
...もし邪悪な奴が勝ったら、我々の生活は悪いほうに変えられるだろう。もし善良な奴が勝てば、我々の生活は豊かなものとなるだろう。 ...我々の生活における何かが問題となっているのだ。こうすると、ドラマを持つことになる。
 ドラマは葛藤である。それは、誰かが他の誰かと対立することである。 ...
...
ニール・D・ヒックス著, 濱口幸一訳、「ハリウッド脚本術」, フィルムアート社, 2001, p.11

...ドラマは、これが起こりそのためにあれが起こるといった、ストーリーを語るものだ。ドラマは原因と結果の構成を見せて、我々に人生の意味を作り出す拠りどころを与えてくれる。

同, p.12

勧善懲悪の物語というのは、物語のなかでも、もっとも原始的なものの一つで、それゆえ、人々の感情によく訴えるものがあるのだと思います。すなわち、”善良な奴”と”邪悪な奴”がいて、”善良な奴”が”邪悪な奴”をやっつける。すると、全ての問題は解決され、人々は幸福になる、めでたしめでたし。エンドロール。

「現実はそんな単純なものではない」

誰もがそう考えるはずですが、一方で、意識下でそう考えようとする指向性が存在するように思います。こうした単純な二元論というのは、人の考え方の基礎に存在するのかもしれませんね。

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2007年7月 3日 (火)

消費者物価が上がらない

という話です。なぜなのでしょうかね。
情報通信業界の”last one mile”を思い起こさせる話だと思いました。

2007年7月2日の日本経済新聞朝刊に掲載された、日清オイリオグループ社長 大込 一男氏のインタービュー記事を引用します。

「 ... 今回ほど様々な農産物が同時に高騰したことはなかった。最大の要因は中国を中心に、世界の需要が急拡大していることだ。最初に石油の需要が増え、鉄鉱石や金属が値上がりし、波は食糧資源に押し寄せた」

...

「デフレが長期化した要因には小売の過当競争や少子高齢化、所得の伸び悩みに加え、食べ物はいつも余っているという『飽食慣れ』がある。ところが日本を一歩出れば各国が食糧資源を奪い合い、売り手優位に変わった。我々も原料確保には苦労している。海上運賃の上昇や円安もコスト高を加速している。日本国内だけは買い手優位のままで、安く買えるという考えはおかしい」

「月曜経済観測 農産物価格の先行き」, 日本経済新聞 2007年7月2日 朝刊5面

本日2007年7月3日の日本経済新聞朝刊に掲載された、日銀短観に関する記事でも、同様の見解が出ていますね。

短観では企業の仕入れ価格が大幅に上がったにもかかわらず、販売価格にあまり転嫁できていない状況を示した。 ...

・・・

原材料高や円安で五月の企業物価指数は前年同月比二.二%上昇した。しかし、小売段階の価格動向を示す五月のCPI(生鮮食品を除く)は前年同月比〇.一%下落。経済企画協会の民間エコノミストへの調査によると、七-九月期まで小幅下落が続くとの見通しとなった。

「短観 物価動向焦点に 仕入れコスト上昇 価格転嫁難しく」, 日本経済新聞 2007年7月3日 朝刊3面

最後は、いつも読ませていただいていますブログ、「食の安全を裏で支える三流商社マン」さんの記事を引用させていただきます。

たとえばですが、缶詰用マグロ(いわゆるシーチキン)原料の国際相場は、
2006年1月から比較すると、 60%以上高くなっています。
プラス円安。いまだに末端売価が上がらないのは、いったいなぜか??

まず、我々生産者、納品会社が極限まで利益を削りました。
次に、中間流通業者さんも利益を削りだしました。
末端の販売者がどうかは知りません。
が、少なくとも、内容量の変化、混ぜ物の比率の変化は起こっているようです。。。
そろそろ限界でしょうけど。。

食の安全を裏で支える三流商社マン 日経新聞より

昨年「いざなぎ景気超え」が話題になったように、景気が回復してずいぶん経つはずですが、未だに消費者物価が上がらないのは確かに不思議です。

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2007年5月23日 (水)

俗物的世代論

意外に盲点でした。面白いです。

で、気になったことが1つあった。もしこれらが若年者だったら、すぐにテレビやらゲームやらの影響とかが持ち出されたんだろうなぁ、というあたりだ。やれ「過保護に育てられた世代だから仮想と現実の区別がつかなくなっている」だの「なんでもネットやケータイですまそうとする現代のバーチャル社会の光と影」だの。この種の言論は、いざネットで探そうとしてみると検索上位にはなかなかひっかからないのだが、テレビにコメンテータとして出てるタレントとかいわゆる「識者」とかの発言としてはよく聞くような記憶がある。

となると、ちょっと試してみたくなる。若年者が起こした凶悪犯罪とかを論じるときにすぐに持ち出されるこの種の「世代論」を、中高年者の凶悪犯罪のケースに適用してみたらどうなるか、といった一種の思考実験だ。

H-Yamaguchi.net: 中高年の凶悪犯罪を俗物的世代論で語ってみるテスト

若い人たちが色々と言われてしまうのは、彼らの社会的立場の弱さゆえなのでしょうね。そうした若年世代論を語る人は、反撃される恐れがないから、彼らを好き勝手に酒の肴にするのでしょう。

俗物的とは、まさに字義のとおりですねー。

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2007年4月29日 (日)

「民主主義」

民主主義―古代と現代 (講談社学術文庫 1810)Book民主主義―古代と現代 (講談社学術文庫 1810)

著者:M. フィンリー
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

1972年に出版された本で、古代ギリシャ史を専門とする著者が、古代ギリシャと現代との「民主主義」という概念を比較して考察しています。

今日の西欧社会においては、誰もが民主主義者である。これは150年前の状況に比べると、目を見張るばかりの変化である。この状況はもともとギリシャの「民主主義」という概念に含まれていた民衆参加の要素が大幅に削減されたことによって可能となり、そのような削減を正当化する理論の普及によってイデオロギー的に助長された。「エリート理論」と普通呼ばれるこの理論は、民主主義が機能し存続できるのは、職業政治家と官僚の事実上の寡頭政治の下でのみであると主張する。民衆参加は時折の選挙に限られなければならない。つまり、民衆が政治的に無関心であるのはよいことであり、社会の健全さの印であるというのである。

p.17 序文より

現代日本の民主政治が、「エリート支配」と呼んで良いものかどうか、疑問はありますが。政官財の「鉄の三角形」は現在も健在で、露骨な利益誘導はまま見られるところではありますね。

鉄の三角形は公的セクターと民間セクターの両方をカバーし,地方レベルにさえ根を張っている。それは,多くの場合,関連業界に対する影響力を各省庁に保証する法的な枠組みないし基本法令によって支えられている。しかも官僚は,規制対象の産業を支配するために公共の福祉の向上を理由とすることができ,特定の法的規定を根拠とすることができる。しかも日本には,規制当局との見解の相違を解決する競争監視機関ないし行政/司法仲裁機関が存在しないために,こうした裁量権が日本の政府機関をことのほか強力にしている。

「日本の改革の障害を取り除く」:OECD Observer 日本語版 No.216 1999年3月号

財界の意向は政治に反映されやすく、一般民衆の意向は反映されにくい、という現実は確かに存在するように思います。

「国にとってよいことはGM社にとってもよいことであり、その逆も真なり、だ」。この今では古典的になった発言は現在でも嘲笑と憤りを引き起こす。 ...
...
だが、果たしてこの発言は間違っているのだろうか。一体、何が国にとってよいことなのか。国益とはどういうことなのか。

p.116

投票権を行使することで、政治に「民意」が反映される、というのは、「うぶなイデオロギー」(p.25)の一種なのでしょう。ただ、民衆の投票行動で政治が変わるという例が、過去に存在するのも事実です。

ファシズムが合衆国にやってくるとすれば、それは反ファシズムの名においてであるとヒューイ・ロングは述べたが、彼は事態を正しく受けとめていたことになる。マッカーシーに対する大衆の支持は、「アメリカ民主主義の理想の意識的な拒否というよりも、その理想を護ろうとする、間違った努力を示している」。

p.29

だいたいは、ろくでもない結果になっているようではありますが。

私は、投票行動によって政治に民意が反映される、とは思いませんが、政治のパワーバランスに何らかの変化をもたらすことはあるだろう、とは思います。現代の民主政治というのは、とてつもなく迂遠な、”間接”民主制になっていますので。

同時に、国民の投票行動を根拠に、政府の政策を正当化することはできない、とも思いますけどね。それも「うぶなイデオロギー」にすぎないでしょう。

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2007年3月13日 (火)

個人情報864万件が流出

日経新聞(2007/3/13付け朝刊1面および3面)によれば、「過去最大規模」だそうです。

大日本印刷(DNP)は3月12日、ダイレクトメール(DM)などの印刷物作成のために得意先から預かった個人情報863万7405件が流出していたことが判明したと発表した。

大日本印刷、DM作成のために預かった43社の個人情報864万件が流出 - CNET Japan

クレジット・カード番号も流出して、それが通販詐欺グループに使用され、警察の捜査で流出元が判明したみたいですね。

業務委託先の従業員が、MO・USBメモリなどの記憶媒体にデータをコピーして持ち出した、とのこと。日経新聞では、「”ひ孫請け”に当たる協力会社の元社員」となっています。

USBメモリにデータをコピーしてもち出す、というのは、実行は簡単ですが、防ぐのはなかなか難しいでしょうね。USBポートやPCのローカルディスク内のデータまで監視している企業ってあるんでしょうか。確か、PCのUSBポートを物理的に「封印」している企業はあったように思いましたけど。

セキュリティも突き詰めていくと、最後は信頼するしかないというところに行き着いてしまいます。

日経新聞では「監視カメラ」やら「操作記録」やらが取り上げられていますけど、個人的には、”ひ孫請け”の方が気になりますね。誰だか知らない人が、頻繁に出入りしているような、そんな職場を想像しました。

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「働きがいのある会社」ランキング

というのがあるそうです。

「働きがいのある会社」を取り戻せ-IIJが日本生まれのIT企業でトップになった理由:ITpro

アメリカでは10年前から始めたそうで、フォーチュン誌で結果が公表されているとのことです。アメリカでの今年の1位がGoogle。

日本では今回は初めてとのことで仕方がないのでしょうが、62社というのはちょっと寂しいですね。

従業員へのアンケートをもとにスコアを作るそうですが、実際にアンケートを行なうのは、調査対象の各社に任されるみたいです。この方法ですと、否定的な評価は出にくくなるように思えるのですが。

具体的には「管理者は,えこひいきをすることはない」「裏工作や他人を誹謗中傷する人はいない」「昇進すべき人が昇進している」という設問に対し,否定的な評価をする人が多かったということだ。

 このほか「信用」や「尊敬」に対する点数も他国に比べて低かった。「経営陣は約束したことをきちんと果たしている」「経営陣は言うこととやることが一致している」という項目への評価が低い。

アンケートのやり方が良く出来ているのか、比較的風通しの良い会社が対象となったせいなのか...

こういったアンケートの設問は、Noが答えとなるように作るのが良いそうで。でも設問がやや刺激的な表現のような気もします。

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2007年3月 6日 (火)

新聞の「客観報道」と「われわれの意見」について

最近はあまり耳にしないような気がしますが、新聞社は自らの報道を「客観報道」だとしていたように思います。「客観報道」とは矛盾に満ちた言葉だなあ、と思っていたのですが、以下の記事を読んで少し分かったような気がしました。

CNET Japan Blog
佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:
「新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか」

新聞記事の意見というのは、主語が「われわれ」であり、この「われわれ」とは、国民一般のこと、つまり国民一般の意見として書かれてる、という趣旨だと思います。

ライティングの基本事項として、「事実と意見を区別して書く」というものがあったと思います。ここで言うところの「事実」には、他者の意見も含まれます。「意見」は自分自身の意見ですね。つまり、自分自身の意見と、それ以外のものを区別するように、ということだと考えます。

この面からすると、確かに新聞記事は「客観報道」である訳ですね。国民一般の意見というのは「事実」でありますし、記者自身の意見はどこにもないとするなら、記事は全て「事実」から構成されていることになります。これを「客観報道」と称するロジックなのでしょう。

もちろん、実際には国民一般の意見を装って、記者自身の意見が書かれているわけですから、詭弁に他ならないわけですけどね。それが国民一般の意見であるという根拠・証拠はどこにもないわけですし、「事実」とするには相当無理があります。論文の場合は、他者の意見を「事実」として記すなら、出典の明示が必要ですよね。

「弱者のための新聞」?
 しばらく前、知人の毎日新聞幹部が、「都市型新聞を目指したって朝日、日経に勝てるわけがない。だったらうちは徹底的に『弱者のための新聞』を目指すしかないんだ」と言っていたことがあった。
 たしかに最近の毎日の紙面を見ていると、このような方向性に進みつつあるのかと思うこともある。世間の潮流からこぼれ落ちてしまった部分に、とにかくこだわっていこうという姿勢であり、弱者に光を当てていこうという視点の持ち方だ。

特定の集団を装って、自らの意見を表明しようとするところに、根本的に無理があるように思います。記事にあるのは、あくまで記者個人の意見であり、それを明確にするのが本筋でしょうね。

個人が個人として意見を表明するのが難しいのが日本社会ではありますので、新聞記者がこうした歪な形でしか意見を表明できないのは、感覚的にはわかるのですけどね。

おまけ:
毎日新聞社会部「医療クライシス」係への意見書1
毎日新聞社会部「医療クライシス」係への意見書2

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理科系の作文技術 Book 理科系の作文技術

著者:木下 是雄
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「事実」と「意見」の話は、確かこの本で知ったのだと思います。本が手元にないので、記憶頼りですけど...違っていたらごめんなさい。Amazonのカスタマーレビューで、この話が触れられているので、たぶん間違いないかと。

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2007年3月 1日 (木)

従業員満足と顧客満足

従業員満足と顧客満足には強い相関関係がある、という話です。

従業員満足が、顧客満足に繋がる - 永井孝尚のMM21 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]

この話は以前にもITmediaの記事で取り上げられていましたね。

ES(Employee Satisfaction、従業員満足)が企業業績やCS(Customer Satisfaction、顧客満足)に与える影響に関する議論や調査・研究は多く、その相関関係は今や常識である。

 しかし経営の現場においては、ESに対する認識がまだまだ甘い。ことCSになると意識の上でESと関連付けられないのか、トップと経営陣が相変わらず「CS、CS・・・」と直接的に大声で叫ぶだけ、特に致命的欠陥商品を市場に出荷してしまったときは、全社で単純にCSの大合唱が響きわたる。ESがなければ、どんなに気合を入れても従業員は顧客の方を向く余裕などない。仮に向いても、形だけである。

「従業員不満足」がCS低下を招く-企業にはびこる「間違いだらけのIT経営」:第16回,ITmedia エンタープライズ,2006年11月15日 09時00分 更新

当たり前のことではあるんですけどね。従業員が自分のことだけで、精一杯になってしまうと、他の人のことを考える余裕などなくなってしまうわけでして。この当たり前のことがなぜ実践できないのかが問題でしょう。従業員満足というのは、売上・利益などの数字と違い、曖昧で測りがたい、というのはあるでしょうけど。

...People are idiots.
Including me. Everyone is an idiot, not just the people with low SAT scores. The only differences among us is that we're idots about different things at different times.

Scott Adams, THE DILBERT PRINCIPLE, Boxtree, 2000, p.2

個人でも賢明であろうとするのは非常に困難ですけど、組織が賢明になるのはさらに難しいと思います。

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The Dilbert Principle (Dilbert) Book The Dilbert Principle (Dilbert)

著者:Scott Adams
販売元:Boxtree
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2007年2月26日 (月)

個人社会は積極的刑事介入を生み出すのか

MOZANさんのブログ記事より。

要約すると、アメリカにおける「暴力」の定義は狭い。相手が妻だろうが恋人だろうが手を上げると「ドメスティック・バイオレンス」という罪で逮捕される、だから気をつけろ。ということ。
MOZANBLOG: 「家庭内暴力」の定義,February 24, 2007 

恥ずかしながら、私はアメリカにおいては、民事訴訟の役割が大きく、刑事介入は日本より謙抑的になされる、という印象を抱いていました。大間違いでしたね。日本以上に必罰・干渉主義であるようです。

私の勘違いは、アメリカの民事訴訟では懲罰的損害賠償が認められていること、刑事訴訟において正当防衛が広く認められる傾向にあること、司法取引が認められていること、などからの類推だったのですが。やはり現実はそう単純なものではないですね。

日本においても近年、警察の刑事介入が積極的になされるようになっている、という印象があるのですが、こちらはどうでしょうね。

刑法犯の認知件数は,平成8年(246万5,503件)以降,毎年戦後最多を更新し,12年に300万件を超え,14 年には戦後最多の369万3,928件を記録した。翌15年に減少に転じ,16年は342万7,606件(前年比21万8,647件(6.0%)減)となったが,依然として高水準にある。
平成17年版 犯罪白書,法務省

犯罪の認知件数は増加しているようです。

日本の社会は、共同体をベースにした社会から核家族化を得て、個人をベースにした社会へと移り変わって来ているように思います。共同体による紛争解決を失った、個人が基本となる社会では、公的な制度での紛争解決に委ねざるを得ず、その結果、民事訴訟も増加し、同時に刑事介入も増える、ということなのですかね。

※認知件数:警察が犯罪について、被害の届出等によりその発生を確認した件数
(警視庁ホームページより)

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2007年2月19日 (月)

サプライサイド屋

いわゆるニセ科学というか、ニセ経済学というものなのでしょうか。

サプライサイド屋というのは経済「学」の一派。「学」とカッコつきなのは、こいつらがあんましまっとうな「学」じゃなくて、本物の経済学に入れるのがちょっとためらわれるから。基本的な考えは、「稼いだ金は使うしかない、だから需要がいっせいに停滞すること(つまり不況)はありえない(わおぅ!!)、だからつくる側(つまりサプライサイド)にはバンバンつくらせよう」というもの。で、そのありえないはずの不況が現実に起きているのはなぜ、ときかれると、「それは政府が余計な規制をかけて、サプライサイドのクビを絞めているからだ」という答えとなる。理論的な裏付けは皆無。クルーグマンはもちろんこいつらを徹底的にバカにしていて、...この一派を「イカレポンチ」と呼んで嘲笑している。

「クルーグマン教授の経済入門」,ポール・クルーグマン著,山形浩生訳,日本経済新聞社,2003,p.21訳注2より

しかし、今の日本政府は明らかにこの「サプライサイド屋」の思想で政策立案をしていますよね。「水からの伝言」や納豆ダイエットなどよりも、よっぽど深刻ではないでしょうかね。おかげで日本の社会保障制度は風前の灯となってしまっていますけど。

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クルーグマン教授の経済入門 Book クルーグマン教授の経済入門

著者:ポール クルーグマン
販売元:日本経済新聞社
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2007年2月15日 (木)

再び、サービス分野の生産性向上

東京日和@元勤務医の日々:[ドウニモトマラナイ]診療報酬削減,SkyTeam,2007.02.15
に気になる記述が...

「IT化(電子カルテ化、レセプトオンライン化など)」が「高コスト是正」になりますかねえ。

ネットを漁って、ソースらしきものを見つけました。

第2章 成長力・競争力を強化する取組
...
1.経済成長戦略大綱の推進による成長力の強化
...
(2)生産性の向上(ITとサービス産業の革新)
①ITによる生産性向上と市場創出
・ 「IT新改革戦略」、「重点計画-2006」(仮称)を着実に実施する。とりわけ、5年以内の世界トップクラスの「IT経営」の実現に向け、産学官による「IT生産性向上運動」、「IT経営力指標」の策定・普及、IT人材育成等に取り組む。
...
②サービス産業の革新
・ 「日本サービス品質賞」の創設等「サービス産業生産性向上運動」を展開する。サービス6分野15の2015 年までの70 兆円の市場規模拡大を目指し、地域ヘルスケア提供体制の重点化等質の高い効率的なサービスの実現策等を重点的に講ずる。

...

第3章 財政健全化への取組
...
2.「簡素で効率的な政府」への取組
...
(医療)
...
・ 医療サービスの標準化、レセプト完全オンライン化等総合的なIT化の推進、患者特性に応じた包括化・定額払いの拡大等新たな診療報酬体系の開発、保険者機能の強化、終末期医療の在り方の検討など、医療サービスの質の向上と効率化を推進する。

(PDF)「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006」,p.8-9,p.25-26,首相官邸:経済財政諮問会議,平成18 年7月7日

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Valentine's Day

Googleロゴの一部がチョコレートになっているのを見て、ちょっと不思議に思い、思わずクリックしてしまいました。

Thanks to a concentrated marketing effort, Valentine's Day has emerged in Japan and Korea as a day on which women, and less commonly men, give candy, chocolate or flowers to people they like. This has become an obligation for many women. Those who work in offices end up giving chocolates to all their male co-workers, sometimes at significant personal expense. This chocolate is known as giri-choko (義理チョコ), in Japan, from the words giri ("obligation") and choko, a common short version of chokor?to (チョコレート), meaning "chocolate". This contrasts with honmei-choko, which is given to a person someone loves or has a strong relationship with. Friends, especially girls, exchange chocolate that is referred to as tomo-choko (友チョコ); tomo means "friend" in Japanese.

Wikipedia contributors, "Valentine's Day," Wikipedia, The Free Encyclopedia, (accessed February 14, 2007).

うーん。

[2007/02/15 追記]

話題になっていますね。

Official Google Blog: Strawberries are red, stems are green...,2/14/2007

”L”が抜けていることには全く気がつきませんでした。orz

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2007年2月12日 (月)

「経済論戦は甦る」

経済論戦は甦る Book 経済論戦は甦る

著者:竹森 俊平
販売元:日本経済新聞出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2002年に単行本として東洋経済新報社から出版されたものが、今年、日経ビジネス人文庫の一冊として文庫化されたみたいです。私は初めて読んだのですけど、現在の日本の置かれた状況を分析したものとして、面白く読めました。

不況に対して、著者は以下の2つの考え方があることを提示します。

1. 清算主義。積極財政、金融緩和などで不況を緩和させず、企業・雇用・資産を不況のなすがままに破壊し、経済から非効率なものを一掃する。その結果、効率的なものが市場に参入しやすくなり、より効率的な経済が生まれる。

2. リフレ主義。不況は経済にとって極めて危険なもので、放置すれば経済は壊滅する。積極的な財政金融政策によってデフレを押しとどめ、政府による富の移転を図ることで経済を正常な状態に復さねばならない。

著者は、1930年代の世界恐慌の際、上記2つの考え方の経済学者によって論戦があった歴史的事実をひき、今日の日本における論戦を分析します。本書前半で著者は、世界恐慌の経験から、清算主義は過ちであり、リフレ主義が有効であるとの立場に立ちます。後半はリフレ主義の立場から、銀行の不良債権処理について、分析されています。

個人的に印象深いのは、小泉内閣への国民の熱狂的支持に関する、以下の一節でした(p.14)。

ドイツ語に「シャーデン・フロイデ」という言葉がある。モノを壊し、傷つけることによる一種のサディスティックな喜びを指す。当時、国民が心に抱いていたのは、これであったかもしれない。自民党のたくらんでいた総裁選出の「出来レース」をぶち壊したあとは、バブル期に地上げをしてボロ儲けをねらい、いまは公共事業にすがってなんとか生き延びようとしているゼネコンを潰す-。「破壊」が、つぎに「創造」につながるというはっきりとしたビジョンがあるわけではなく、ひたすら「破壊」を続けることでの憂さ晴らしである。

巻末の参考文献を見ていると、「医療・保育などのサービス改善」というタイトルが。清算主義は必ずこれを持ち出すのですかねえ。この本の著者はリフレ主義に立つためか、清算主義に関しては、あまり詳しく述べられていなかったのですけど、どんなことを言っているのか、一度読んでみようと思います。

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2007年2月 8日 (木)

サービス分野の生産性向上

日経新聞の人気コラム「大磯小磯」からの引用です。

...
...今後、労働力人口減少下で成長率を維持していくためには、生産性の引き上げが不可欠である。その鍵となるのが、製造業に比較して生産性が劣るサービス分野や非製造業の活性化であり、官業自体も含むいわゆる官製市場の改革が必要である。ただし、効率性の追求は、人減らしやサービスの質の低下に結びつくという懸念を生む。
 その一方で国民生活の観点からみると、消費者のニーズがいまだ十分に満たされず、質の向上も求められているのがサービス分野である。医療・介護や保育サービスはその典型である。子を持つ母親のパートの稼ぎが、ほとんど保育費用に消えてしまうような保育サービスでは、生活の向上は望むべくもない。...
...
 成長の果実が国民に還元されるからこそ成長戦略は支持される。求められる戦略は、サービス分野や非製造業を活性化することで、供給の拡大と質の向上を通じて消費者ニーズを満たすことである。同分野の市場拡大と、そこで働く人々の所得増加による消費拡大の好循環が始まれば、拡大均衡のもとで生産性の引き上げも容易になる。
...
(追分)

「大磯小磯-規制改革は成長戦略の柱」,日本経済新聞,2007年2月7日朝刊19面

さて、サービス分野の効率化の方法としては、今のところ、以下の2種類があるように思います。

  1. マクドナルド方式。仕事は人が行なうが、徹底的なマニュアル化により機械的に作業できるようにする。フォーディズムのサービス分野への適用。
  2. Google方式。IT技術を用いて、サービスを文字どおりに完全に機械化する。サービス業の製造業化、あるいは装置産業化。

サービス分野でのイノベーションというのは、機械化によってもたらされるものだと思います。機械化によって、少ない人手で大量の需要をさばくようにするのが本質ではないでしょうか。

このコラムにある考え方は、ヘンリー・フォードの名前とともに有名になった、フォーディズムという生産方式であるように思われます。「求められる戦略は、サービス分野や非製造業を活性化すること」として、「供給の拡大と質の向上を通じて消費者ニーズを満たすこと」、「同分野の市場拡大と、そこで働く人々の所得増加による消費拡大の好循環」、「拡大均衡のもとで生産性の引き上げ」などというあたりから、それが推測されます。

「医療・介護や保育サービス」は、上に挙げたいずれの方法が適用できるでしょうか。いずれも、完全機械化など無理のある分野ですし、また、そうしたものを消費者が望むとも思えません。規制緩和・自由化によって質の向上・価格低下をもたらすには、こうしたイノベーションが必要ですが、機械化の不可能な分野にそれを期待するのは難があるように思います。アメリカ医療で起きている医療費の高騰は、こうしたことを証明しているように思えます。

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2007年2月 2日 (金)

ソフトバンクモバイルの予想外な割引について

「携帯電話の通話料は得なんだか損なんだか分からない」というような話を、つい最近仲間内でしていたのですが。

相談が相次いでいるのは、携帯電話機の販売における、クレジット分割払いの契約(個品割賦あっせん契約)と「新スーパーボーナス特別割引」の割引サービスを組み合わせたプラン。2年間のローン契約と割引制度を組み合わせた契約方法で、契約料金無料で、端末代は24回の分割払いにした月々2670円だが、「新スーパーボーナス特別割引」による割引額月々2280円となり、最終的に毎月の支払額は390円に設定されている。

 ところが、自宅で電波がつながらなかったなどの理由で、この契約をした消費者が解約を申し出たところ、販売店側は「解約には応じるが、クレジット契約期間が終了する2年間毎月2670円を払い続けるか、端末の一括購入代金6万4080円を払わなければならない」と説明。

「解約で6万円請求--消費者生活センターがソフトバンクに改善要望書」,CNET Japan,Emi Kamino,2007/01/31 17:57

携帯電話の通話料って、何であんなに分かりにくいのですかねー。イニシャルコスト、ランニングコスト、ついでに解約時のコストを出す料金シュミレータを用意してくれても良さそうなものですが。ちなみに私は、通信業界ではありませんけど、料金シュミレータのプログラムを開発したことは、何度かあったりします。結構、他の業界では料金シュミレータを提供しているみたいなんですけどね。

先日、とある方に、「会社がつぶれるとき」という話を聞いた。曰く、「売上、利益の不振やキャッシュの不足等、会社がつぶれると言われる要因はたくさんあるが、本当はそんなことでは会社は潰れない。会社が潰れるのは、“ごまかし”をしたときだ。」ということだったのだが、なるほど例外はあるにしても、肝に銘ずべきお話だと思った。

「会社がつぶれるとき - テクノロジー解放日記」,ITmedia オルタナティブ・ブログ,小椋 一宏,2007年01月31日

私も結局のところ、商売の秘訣は誠実さ・正直さであるという、当たり前の結論に到達しています。”ごまかし”で瞬間的・短期的に儲けることはできても、長く続けることはできませんからね。「正直者が損をする」のは、対顧客の場面ではなく、対マネジメントの場面であるように思います。逆にマネジメントは、正直者が損をしないように行なわなければならないのでしょうね。

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2007年2月 1日 (木)

スケールの問題

拙ブログのエントリ「医療デスマーチの終焉」「新小児科医のつぶやき」 ブログで取り上げられ、医師の方々の予想外の共感を呼んだようです。取り上げてくださったYosyanさま、また読んで下さった皆様に、改めて御礼申し上げます。

さて、これに関連した以下のブログのエントリを読んで、思いついたことを少し。
(医療には関係がないかもしれません)

レジデント初期研修用資料: デスマーチなんだろうか?

書かれている内容は、私達がスケールの問題と呼んでいるものですかね。

  1. ある種のことは本当にうまくやるには才能が必要だ。
  2. 才能をスケールするのは困難である。
  3. 人々が才能をスケールしようとしてやるのは、才能ある者に作らせたルールに才能のない者を従わせる、ということだ。
  4. 結果として得られるものの品質はとても低い。

ITコンサルティングにおいてもまったく同じことが行われているのがお分かりいただけると思う。

ジョエル・スポルスキ,翻訳: 青木靖,「ビッグマック 対 裸のシェフ」,Joel on Software,2001/1/18

これは経営用語では、規模の経済と呼ばれるものになるのだと思います。

規模の経済 Economies of Scale

規模の経済とは、生産量の増大につれて平均費用が減少する結果、利益率が高まる傾向をいいます。同じ意味で、規模に関する収穫逓増、費用逓減といわれることもあります。

経営用語の基礎知識, NRI, 2004年10月

「才能」という程大袈裟でなくとも、ある程度の熟練を要する労働集約型産業では、スケール・メリットとして収穫逓増は可能でも、費用逓減には限界があるのではないのかな、と思います。つまり劇的なコストの抑制はもたらさない、ということです。これは、ITシステム業界が「オーダーメイドのシステム構築」で身をもって知ったことではないかと思います。

バブル崩壊後の「失われた15年」の間、ITシステム業界(に限りませんが)は、猛烈な価格低下圧力にさらされ続け、ダンピングを繰り返してきました。1年で価格・納期が半分になるくらいの感覚でしたね。結果、大量のデスマーチを生み出し、赤字プロジェクトが続出したわけですけど。

どうもデフレ下で国民の価格に対する感覚が麻痺してしまったのではないか、と疑っています。大量生産の工業品のようなものであれば、規模の利益によって原価を下げ、これを反映することで価格を下げることが可能なのですが、労働集約型産業においても、これと同じことを求めているように感じていました。しかし、産業の構造上不可能だと思います。劇的に価格を下げる場合は、質を落とす・リスクを増やす、といったことになります。

最近ですと建設業界にこれを感じています。公共事業の競争入札で、落札率9割台が「高止まり」と批判を受けて叩かれていますけど、もともと発注側がそんなに余裕をみて予算を積んでいるのか疑問なのですよね。逆に予定価格オーバーで落札者なし、という事例が報道からは出てこないのが不思議です。建設業も労働集約型産業で、人件費が一番大きいだろうと思いますし、そんなに劇的に価格が下がるはずはないように思うのです。落札率6割なんかは明らかに異常でしょう。

ちなみに、ITシステム業界では、一般競争入札を取り入れた結果、入札辞退、予定価格オーバーはもはや常識化した感じです。義理・人情よりも採算性重視になってますね。

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2007年1月23日 (火)

検索サーバは日本に置けない?

政府の知的財産戦略本部は二十二日のコンテンツ専門調査会の作業部会で、日本製のアニメーションや映画などのコンテンツ産業の振興に向けた中期戦略案を大筋了承した。米グーグルのようなネット検索サービスを国内事業者が展開できるようにするため、著作権者の許諾がなくても文書や画像データを複製可能にする著作権法の改正などを打ち出した。

…現在は一部の例外を除き、著作物の無断複製や編集は認められていないため、検索サーバーを国内に置くことができない。
米国では、公正な利用である場合は原則として複製や編集が可能。グーグルなど検索サービス大手の日本法人は検索サーバーを米国に置いている。

日本経済新聞, 2007年1月23日, 朝刊5面, 「ネット検索に文書・画像利用 著作権許諾不要に コンテンツ振興知財本部戦略案」

Googleが検索サーバを米国に置いているのは、設備投資上・管理上のメリットからではないでしょうかね。サーバが海外にあっても、日本法人がある以上、日本の法律の適用は免れないのでは、と思います。

もう一点気になるのは。「無断複製」とありますが、”The Robots Exclusion Protocol”や、”The Robots META tag”は法律上無視されてしまうのですかね。Googleの場合ですと、以下にGoogleのインデックスからの削除方法が説明されている訳ですけど。

ウェブマスター向けヘルプ センター - ウェブ サイトの一部を削除する(Google)

以下のサイトによりますと、米国では著作物の許諾について、「オプト・イン(事前の許諾)」と「オプト・アウト(事後の許諾)」があるようですね。事後の許諾を正当化する理屈が「公正な利用(Fair Use)」ということでしょうかね。

bookscanner記 -  Google揉め事を整理しましょ(1)

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2007年1月13日 (土)

ソフトウエア先行の米国とハードウエア先行の日本

話題になっているAppleのiPhoneの記事を見ていて、改めて思いました。

なんだか、機能を見れば見るほど M1000とiPhoneは実質的には差がないようにも感じるのですが、M1000は心ときめくものを感じさせてくれません。M1000とiPhoneを比べていて、ソニーがアップルのiPodに対抗するHDD搭載ウォークマン「NW-HD1」を発売した時のことを思い浮かべてしまいました。「ハードや機能の世界」対「体感の世界」の差です。

大西 宏のマーケティング・エッセンス: iPhoneとM1000はなにが違う?
(2007年01月12日)

日本はやはりハコモノ優先でソフトウエアが軽視されているんですよね。このことは、特に組み込み系のソフトウエア・エンジニアの方々が、よく指摘していらっしゃいますけども(ソフトウエア・エンジニアの地位が低い)。

iPodは少なくとも筐体のみを見る限り、ソフト・ハードを含めたトータルなデザインの勝利、という感がまだあったのですが、iPhoneはまさにソフトウエア中心にデザインされた製品、という感じがします。この製品が日本の携帯電話機市場でも成功すれば、まさしくソフトウエア先行主義の勝利、と言っても良さそうに思います。

Microsoftの創業時にビル・ゲイツが、「これからはソフトウエア中心の時代になる」と語った、という逸話があったかと思いますけど、家電製品の世界でも、まさしくそうなってきているように思います。

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2006年11月 5日 (日)

会議でのNGワード

会議での議論をより有益なものとするため、あらかじめNGワードを決めておく、というアイデアはどうでしょうか。

とりあえずは、以下の3点をNGとしてみたいと思います。

1) 前例
「前例がない」、「実績がない」など。

2) 権威
「大手(有名)企業がやっていない」、「教科書・参考書にない」など。

3) 怠惰
「面倒くさい」、「時間がない」など。

どうも、この手の不毛な意見(?)は必ず出てくるように思いますので、会議冒頭で、NGワードとすることに合意しておくと良いかもしれませんね。まあ、事前に反論を用意しておく手もありますけど、結局時間の無駄になりそうですし。

でも、こうすると、誰も発言しなくなるかも...

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2006年10月 4日 (水)

GoogleガジェットとWebサービスAPI

Google、マッシュアップ・ダンスのお手並み拝見

以下のように、Googleガジェットがどこからでも利用できるようになったようです。

Googleは、GMailやMapsといったWebサービスで、APIを公開して、誰でもこうしたサービスを利用したWebページを作れるようにしていた訳ですが。こうしたAPIを利用するためには、簡単とはいえ、JavaScriptでプログラミングを行なわなければならず、プログラミングを知らない人間には敷居が高かったでしょうね。

このように、誰もが「プログラミング済み」のガジェットを提供できるようにすることで、「作る人」と「使う人」を、Googleが取り持つ趣旨でしょう。APIの利用が促進されそうです。

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Web2.0時代のリテラシ

【警告】Googleカレンダーで情報流出?

ITのリテラシという言葉を思い浮かべました。最近はあまり聞かない言葉ですけども。私もこの言葉で連想するのは、WordやExcelの使い方を教える、という程度で、あまり気にとめたこともなかったのですが。

検索してみると、「ITリテラシ」という言葉は見つからず、以下の3種類が見つかりました。

メディアリテラシー【media literacy】
コンピュータリテラシー【computer literacy】
情報リテラシー【information literacy】

これで言えば、私の思い浮かべたイメージは、「メディア・リテラシ」が一番近いですね。

Googleカレンダーが「メディア」というのは、多少違和感を感じますが。Webというのが、そもそもメディアの一種ですからね。アプリケーションであり、同時にメディアでもある、というのが正しい認識だと思います。

おそらく、Googleカレンダーでプライベートな予定を、全ネットユーザに対して公開してしまっている人は、Googleカレンダーが、「公開メディア」でもある、という認識がないのでしょうね。あくまで、アプリケーションだと考えているのではないでしょうか。

Winnyの件もそうですが、こういうのは「事件」が起きてから、大抵の人はその危険性といいますか、リスクに気づくわけでして。新しい技術というものは、常にリスクを含んでいると思います。

こうしたリスクに気づくことができるよう、啓蒙しなければならない、というのが、「何々リテラシ」という言葉の趣旨なのでしょう。しかし、啓蒙それ自体は根本的解決にはならず、「気休め」程度にしかならないんですよね。「事件」が起きて、ニュースで大々的に報道されたりすると、まさに「啓蒙」されるわけですが。時すでに遅しという感があります。

私自身は正直、プライベートな内容で、こんなにGoogleカレンダーを使うとは、想像もしていませんでした。企業や団体などが、イベントやセミナーなどの予定を告知したり、参加者を募ったりするのに使えそうだな、というのが私の想像だったのですけど。

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2006年9月13日 (水)

何を使ってブログを書くか?

"Joel on Software"の以下の記事を読みまして。

The combination I found that made me happiest was TextMate in Markdown mode. It was a surprisingly good experience. TextMate is an "emacs inspired" editor for the Mac, with tons of build-in stuff for editing different types of text files that they call Bundles. Markdown is a very simple way to format text, for example, putting *asterisks* around text that you want italicized; it generates nice clean HTML. Even Markdown  source is quite clean and still highly readable, useful if you need to post the same content to Usenet or use it in plain text somewhere.
Joel on Software : Composing in TextMate with MarkDown

「ブログを(楽に)書くのに使えるツール」というものを、みなさん、結構探しているみたいで、海の向こうでも同様なのだな、と思ったのですけど。

かくいう、私もご同類でございまして。

BlogWriteWindows Live Writer などの、いわゆる「ブログエディタ」を試してはみたのですが。何か違うな、と思いました。

結局のところ、欲しいのは、「簡単に」HTMLが作れて、それをブログにそのまま貼れる、といった「仕事」に使えるツールなんですよね。Markdown は、私も考えてはいたんですけども。Perlというのがちょっと引っかかってまして。

それで、ちょっとググッてみたら、 BlueCloth という、MarkdownのRubyポートがあるんですね。時間ができたら、これを試してみようと思っています。応用も利きそうですし。

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